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主の愛
以前、このブログに圧倒的に欠如している言葉に「主の愛」ということを書きました。救われたころは圧倒的な主の愛に満たされていて、主の愛なしでは生きていけないと思っていました。何をしても輝いて見える、そのような毎日です。しかし、いつしか恵み慣れや高慢からくる自分中心主義が台頭し始め、あっという間に主の愛から離れてしまっているのでした。
聖書を読んでいるし祈りもしている。だから主に近づいていると思っていてもどこか作業的で宗教行事のように感じてしまう。ようは自分の主に対する愛がなくなってしまっているのです。完全に習慣で義務的になっているのです。
まずすべきこと
そこで、まず求めたのは、悔い改めることです。はじめの愛に帰るには、自分が主の前に喜ばれないことをしていることを洗いざらいさらけ出すことです。この過程で肉なる自分は頑なに抵抗します。なぜなら、自分のしていることを正当化したいからです。そこでまずひとつの戦いがあります。
さらに、自分では気づいていない罪も示して頂く必要もあります。主から離れて長い生活が続くとビンカンじゃなくなってしまいます。ですので、主に語って頂いたり教えていただかなければなりません。
経験上、この過程がかなりつらいです。おそらく僕が聞いて話のわかる人間だったら主も語ってくださるかもしれません。しかし、僕は頑なな種族なので、経験で知らされる必要があるのです。これはかなりつらいし、きついです。自分に自信もなくなるし、打ちのめされます。なぜ?こんなに立て続けにこんなことが!?というようなことも起こります。しかし、それは主が僕に教えようとしてくださっているのです。
次にすべきこと
かくして、罪の悔い改めが終わると次は、主を求める段階に入ります。ここでは忍耐力がためされます。祈ることを教えられます。一人になる勇気が試されます。最初は5分しか祈れなかったとして、それが次第に長くなっていきます。諦めないぞ!主は必ず答えてくださる!という確信をもって近づきます。
主は求める者に必ず報いてくださるお方です。主は語ってくださり、恵みを経験されてくださり、満たしを与えてくださいます。この時に初めの愛に帰ることができるのだと思います。
主は「あなたはどこにいるのか?」(創世記)と語ってくださっています。もし、悔い改めることも求めることもせずに出てこようとしないなら、主の愛に帰ることはできません。しかし、主よ、あなたの深い愛の中に再び帰らせてくださいと求めるならば、主は大きな恵みをもって包み込んでくださいます。