0530_心に喜びがないと主は共にいない

感情との向き合い方

信仰生活を送る中で、自分の感情とどう向き合うかについては正しい知識を持つ必要があると感じています。感情は良いものでも悪いものでもないというのが僕の考えです。もちろん、主が共におられる時に、主を賛美する時に、私たちは心に楽しみを感じたり、魂に喜びを感じたりします。それには大きく感情が関与しています。

しかし、忘れてはならないのは信仰は感情の上に打ち立てるものではなく、聖書の言葉の上に打ち立てるものであり、聖霊の助けを受けながら自分の意志によって選択するということです。

一時的な感情の高まり

例えば、恵まれた集会やキャンプなどで主の臨在を大いに感じて、魂が恵まれます。しかし、それがその一時的な感情の高まりだけで終わってしまうと、日常生活に戻った時に主の言葉に留まり続けるのはきっと難しいでしょう。

絶対的なこととして主を喜ぶこと、主が与えてくださった楽しみを享受することはとてもいいことです。しかし、それと同時にそれをフックにして聖書の言葉に自分の信仰を打ち立てることをしないと瞬く間に日常に流されてしまうと思うのです。

祈りのあとで

他にも例をあげてみます。僕は仕事をする前に祈っていますが、祈ると同時にいつも喜びに満ち溢れ、圧倒的な平安が与えられるわけではありません。祈る前に、お客さんからの連絡内容次第で正直朝からへこんでしまう場合もあります。

しかし、僕は知っています。今のこの感情と主の意志とは全く関係がないということを。僕が今どのような感情を抱いていても、それがたとえ喜びじゃなかったとしても、主は変わらず共にいてくださるということです。僕の感情がどれほど変わっても、主は変わらないのです。だから、求められていることは、自分が今感じている感情に左右されないように無力化して、聖書の言葉を信じるということです。

主は変わることはない

もし、今自分が喜びを感じているか、平安があるか、で信仰が左右されるようだったら、毎日が不安定になってしまいます。今日は主が共にていくださるが、明日は共にいてくださらないかもしれない。というような関係だと決して安心できないでしょう。

何度もいうようですが、自分の感情と主が共にいてくださるかどうかは全く関係がありません。主は昨日も今日もいつまでも変わることがないお方です。

ですので、感情とはうまく付き合うべきものだと感じています。

おっさん
■信仰は感情の上にではなく聖書の言葉の上に打ち立てるもの

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