早い方がいい
普段生活をしていると何をそんなに急ぐのか?と疑問に思うことがあります。例えば、信号を無視して渡る人を見ると、信号を無視して渡ってもせいぜい数秒から数分しか短縮できないのに何をそんなに急ぐのかと思ってしまいます。電車やバスに乗るために数秒を争うという場合は別にして、ほんのわずかなリスク(法令違反?)を冒して、その短縮できた数秒から数分を何か有益なことに仕えるのかなぁと疑問に思うのです。
そんなこんなで、のんびり、ぼーっと生きているので、この社会が求めるスピード感についていけいないことがしばしばです。例えば、仕事の場合はほとんどが急ぎです。見積提出にしろ、開発にしろ、最短での対応が求められます。競合企業よりも早くサービスを展開して、市場を占有しないといけないなどの理由があるのでしょう。もちろん、市場は弱肉強食の世界で、資本主義のプレイヤーは全員強制参加の競争なのでスピードが求められる中で生きることは避けられません。
その速さは人生の豊かさに影響を与えているのか?
個人的にはぼーっと生きているように思いつつも、実はあらゆる状況、あらゆる場面でかなりせっかちだということがわかります。例えば、学生の頃は、新しいゲームが発売される度に予約をして、当日プレイしたかったですし、映画もレンタルビデオ屋に足を運ぶ必要もなくすぐにストリーミングで楽しむことができます。PCやスマホにしても、レスポンスが早い、サクサク動くとやはり快適で気持ちがいいものです。
ただし、後日的に考えると、そんなに早くゲームをプレイして、その後の人生に何か大きな影響を与えたとも思えませんし、その映画を手軽に早く視聴できたからといって、大きな意味があったように思えないのです。人間の欲望は早く手にしたがるものなのかもしれません。
自然、歴史、神の時間感覚
一方で、歴史、あるは自然の流れは悠久です。大木が年輪を重ねていくようにゆっくりとした速度です。1年かけて四季がめぐり、ゆっくりと作物は育っていきます。農家の方は収穫を待ち望み、手塩にかけて作物を育て、自然を相手に忍耐が要求されます。原理原則は一定の時間を必要とします。
聖書の世界、神様の時間の捉え方も同じように思います。モーセが神様の働きに携わるためには40年間の期間が必要でした。イエス様も公の働きをされるまでの30年間の時が必要でした。ヨセフがエジプトに奴隷として売られてから、エジプトの宰相になったのは、既に30歳でした。ヨセフの生涯については、下記のように記載されています。
彼の足は足かせをもって痛められ、
彼の首は鉄の首輪にはめられ、
彼の言葉の成る時まで、
主のみ言葉が彼を試みた。
詩篇105:18-19
神様と共に歩む時に、必ず神様の時が必ずあり、神様の約束の言葉が成る日を待ち望む忍耐が必要となることと実感しています。個人的には、早く答えをくれ!早く助けてくれ!クレクレ信仰になってしまいがちですが、神様はすべてをご存知で、僕たちにとって最善の時をご存知です。ですので、焦らず、神の時を待ちたいと思いました。
■ただし、その求める速さが自分の人生の豊かさにどれほどの影響を与えているのかは疑問である。
■自然の流れは悠久であり、実を結ぶには一定に期間と忍耐が必要であり、それが原理原則である。
■神の時は往々にして人間に忍耐を要求されることがあるため、せっかちに焦らず主の時を待ち望む忍耐を持ちたい。