誰も自分を犠牲にしたくない
昨日は「僕は一体1年でどのくらいの時間を主イエス様と共に歩んでいるのだろう?」という自問から、自分が如何に主と共に歩んでいないかということを書きました。さらに、僕はどのようにしたら主と共に歩めるかのも知っているにも関わらず、自らそれを選択していないということも書きました。
その原因として、僕には律法主義的ではないある種の厳しさが欠けているからだと書きました。それは言い換えれば「犠牲」になります。人間の肉の性質は「犠牲」と聞くと、嫌だなと反応すると思います。なぜなら、誰も自分を犠牲にしたくないからです。
一代目のクリスチャンの犠牲
主イエス様は僕のために犠牲の限りを尽くしてくださいました。しかし、僕は主イエス様のために犠牲をしたくないと思う気持ちがあるのです。これは本当に恐ろしいことです。イエス様はご自身の命を捨てるほどに愛してくださったのに、僕は命を差し出さなくてもいい程度の犠牲すら主イエス様のためにしたくないと思っているからです。
もちろん、僕みたいなそうじゃない人たちもいます。それは割とすぐに見つかります。それは一つ上の世代、かつ一代目のクリスチャンの人たちです。このような先輩クリスチャンの多くは犠牲を払ってイエス様への信仰を堅持しました。両親の反対に感情は揺れ動いたかもしれませんが、イエス様に対する愛と霊を堅くもって選択したのです。これは信仰の犠牲です。
ぬるま湯の中にいるカエル
かたや僕は2代目で何の苦労もせずにイエス様を信じました。そして、信じたらみんな大喜びしてくれる環境で育ったのです。それは確かに恵みだと思います。しかし、別の角度から見たら、ぬるま湯の中にいるカエルようなものかもしれません。
それは、熱くもなく冷たくもなく、ぬるま湯の中でのほほんと信仰生活を送っているのではないか?と思うからです。だから僕は初代クリスチャンが当たり前のように持っている犠牲が必要だと思っています。
365日の日常生活における犠牲
その犠牲は何も教会の奉仕のことだけではありません。なぜなら教会での与えられた奉仕で犠牲するのはそれほど難しいとは思わないからです。むしろ、教会の奉仕以外の365日の日常生活における可処分時間を犠牲をもって主に仕えることができるか?です。
教会では身が引き締まります。しかし、家庭では気が緩むことが多いです。だからこそ難しいと感じるのです。その中で主のために犠牲を払えるか?それが僕が受けているチャレンジです。
律法主義か?
こんなことを書くと律法主義に陥ると言われそうです。しかし、先にも書いたように初代クリスチャンはすべからず犠牲を払っているのです。恵みの時代に育った僕もその犠牲を要求されるのは当然だと思っています。
なぜなら、次の世代の救いは今の世代の犠牲にかかっていると思うからです。もし、次の世代に福音が伝わらないなら僕の怠慢です。天のふるさとに帰った時に、主イエス様に喜んでもらえるように1日1日過ごしたいです。