0774_「自分は守れている」というバイアスが誰にでもかかっている

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聖書という書物

聖書は読むたびに新しい気づきが与えられる不思議な書物です。悩み、葛藤の中にある時に慰めと励ましを受け取ることもあれば、自分の罪に光を当てられて受けとりたくないと思いたくなるようなこともあります。

聖書が要求する基準は非常に高いので、時にはこんなの無理だ!と思うこともあります。しかし、それは当然のように思います。なぜなら、聖書は人を教え、戒め、正しくし、義に導くものであり、人を神に導くものだからです。もし、「自分で守れる」というような基準であれば、それは神が不要であり、恵みによって救われることも必要なくなってしまいます。

十戒も守れていない

もっとも、誰でもモーセの十戒すら守ることができていないのです。下記はWikipediaからの抜粋ですが、一見守れているようにおもうかもしれません。

  1. 主が唯一の神であること
  2. 偶像を作ってはならないこと
  3. 神の名をみだりに唱えてはならないこと
  4. 安息日を守ること
  5. 父母を敬うこと
  6. 殺人をしてはいけないこと
  7. 姦淫をしてはいけないこと
  8. 盗んではいけないこと
  9. 隣人について偽証してはいけないこと
  10. 隣人の家や財産をむさぼってはいけないこと

しかし、聖書には一つでも守ることができないなら、全体を破ったことになると書いてあります。

なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。
ヤコブ2:10

バイアスがかかっている

人間は誰でも自分は守れていると思ってしまうバイアスがかかっています。これを認めないとなかなか自分が罪人であるということがわかりません。

なぜなら、人とは他人の目にある塵には気づくけれども、自分の目にある梁には気づかないような存在だからです。もし、僕が聖書を読んで、「自分は守れている!安心だ!」と思った時点で、既に自分は立っていると思っている者であり、倒れないように気をつけなくてはいけません。

聞かれる祈り

バイアスがかかっているからこそ、神の前に膝をかがめて、示して頂かなければなりません。それは、ただたんに聖書をぺらぺらめくるだけでなく、「罪を示してください」「悔い改めるべきことを教えてください」と祈りつつ読まないとなかなかわからないものです。

神様は祈りを聞いてくださるお方なので、聖書だけでなく日々の生活の出来事を総動員して、罪や悔い改めるべきことを教えてくださいます。その過程は自己否定の連続です。なぜ、こんなつらいことが起きるのか!?と思いたくなることもありますが、それは、自分が聖められるために必要な過程なのです。

だから今日も膝をかがめて主に祈ります。

「僕の罪を示してください」
「僕が悔い改めるべきことを教えてください」

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