新年最初の朝
新しい年を迎えました。新年は元旦礼拝があり主の前に出る恵みに与りました。礼拝は単なるプログラムではなく、人の集まりでもなく、歌を歌うところでもなく、主がおられるところです。
もちろん、主はいつも心の中にいてくださいます。しかし、礼拝には臨在があります。家の部屋の中で一人主の前に出るそれとは異なります。一人で主の前に出ることも恵みであり、至福で平安の時ですが、主を求める者たちと共に礼拝するのは全く違う体験です。
礼拝ですること
もし、信仰を働かせることなく表面的なところだけを見ると「ただ単に歌を歌っておじさんの話を聞く」だけのイベントに見えるかもしれません。そこには華やかさも目新しさもなく、人を惹きつけるような要素は何一つないかもしれません。
しかし、信仰を働かせるとすべてが変わります。下にあるものではなく、上にあるものを求める時にすべてが変わります。見えるものを求めるのではなく、見えないものを求める時に全く違ったものが見えるようになります。
礼拝の中で起こること
当然のように人間の心身は目の欲、肉の欲、持ち物の誇りを求めます。富全般、日常生活では魅力的なコンテンツ、美味しい料理、格好いいお洒落な衣服を求めます。それは僕自身も同じです。
しかし、この魂はそういったものでは満足できないことを知っています。何を求めても何を手に入れても、満足は得られないことを知っています。本当の満たしや平安は神の聖なる霊に働きかけられる時に起こるのです。それは礼拝に出る中で触れられたり、語りかけられたり、御言によって内側に変化が起こるのです。
今年の目標
今年も礼拝から一年を始めました。今年は礼拝への意識を変えたいと思っています。習慣で行くのではなく、プログラムに参加するように出るのではなく、また奉仕があるから出るのではなく、神を愛するがゆえに神を喜ぶために礼拝に出たいと思いました。
クリスチャンであって、毎週礼拝に出ていても、もし信仰を働かせていないならば、神様は喜ばれないと思っているからです。見えないものを見るように、上にあるものを求めるように礼拝をする者でありたいです。
信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。
ヘブル11:6