不信仰の心
正直に話すと僕の心の中には不信仰の心が湧き上がってくることがあります。こんなことを書くと「お前はそれでもクリスチャンか!」と言われそうですが、実際にそうなのです。なぜなら、僕は霊によって生きていると同時にこの世界で肉においても生きているからです。だからいつでも不信仰になりうるのです。
この世界で生きている以上、常に肉の影響をうけます。だから不信仰の心が沸き起こってくるというのは自然なことだと思っています。
聖書に書いてあること
不信仰と聞くとイエス様を救い主として受け入れないことと思うかもしれませんがそんなことはないと思っています。僕の中での不信仰の定義とは、聖書に書いてあることを信じないことはすべてが含まれます。だからこそクリスチャンであっても、信仰歴の長いクリスチャンであっても不信仰になる可能性があると思います。
たとえば、僕の例を書きます。僕は今いる職場の同僚が救われると信じているでしょうか?僕の友人知人が救われると信じているでしょうか?主がいつも最善をなして良いことをしてくださると信じているでしょうか?僕は正直に書けばそうは思えない、そもそも、そんなことを思ってもいない、ということがあります。つまり不信仰以前の問題なのです。
どうしようもない存在
自分がそのような存在であるとわかった時に、本当にイエス様が必要だと切実に思うようになりました。僕はいかに弱く不信仰でどうしようもない存在なのかということを思い出してきたのです。なぜなら、救われた当初は本当にそのように思っていたからです。
しかし、年を重ねるにつれ様々なことを経験したり、持つようになる中で僕はいつしかイエス様が本当に必要だという信仰の態度、霊的感覚、姿勢、態度がわからなくなってしまったのです。これはイエス様と僕の関係が変わってしまったということです。
クリスチャンはこうあるべきだ
しかし、ここ数か月の困難を経ることにより、また自分が今どのような姿なのかを知り、僕はイエス様との1対1の関係を思い出しつつあります。祈りとはどうものなのか?日々のデボーションはどうものなのか?ということが少しずつ回復してきているように思うのです。
僕はこれまであまりにも形から入っていました。あまりにも自分が思っている以上に人の目を気にしていました。なにより、クリスチャンはこうあるべきだという外からのイメージによって自分の信仰を確立してきました。今はその外からのイメージはありません。なぜなら、僕はそのイメージの要求に自分の力では答えることができないと知ったからです。