主のなされること
ここ数か月、自身が試練の中にいるということを書いてきましたが、詳細については書いてきませんでした。それは事後的に書きたかったからです。現在進行中の過程段階で書くよりも主のなされることはすべてその時にかなって美しいという原則に基づいて事後的に書きたいと思っていたからです。
しかし、今日はその過程も書いたほうがいいと思いましたのでありのままに書こうと思っています。
メインシナリオ
現在、僕たち家族が置かれている状況は家族の死に関してです。これから生まれてこようとしているこどもが長く生きられないというのです。これまで、4つの病院を紹介されて手術等措置で解決できないかと検討すると同時に教会や家族に祈りのリクエストをお願いし祈ってきました。
しかし、最終的に医者から言われたメインシナリオはこどもは生まれても息ができなくて死ぬということでした。そのような状況の中で、家族はこの御言に立つことを決めました。
コリント人への第二の手紙 4:18
わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
見えないお方に望みを置く
祈れば道は開かれると思って祈ってきましたが、状況は悪くなる一方でした。現実を見ると様々な気持ちが沸き起こってきて、それが僕を主から離そうとするのを感じました。だから、見える事実や状況を見るのではなく、見えないお方に望みを置くことにしました。またこの御言も握ることにしました。
ローマ人への手紙 4:18
彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。
僕は自身の信仰がアブラハムと同じだとは全く思いません。しかし、アブラハムはサラが閉経してこどもを授かる望みがなかったのに信じ続けたのです。
たといそうでなくても
僕の願いは子どもが元気に生まれてくれることです。しかし、シャデラク、メシャク、アベネデゴの信仰をもって主のなされることを望んでいます。
ダニエル書 3:18
たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」。
僕の思いはこうです。
「主よ。たとえそうでなくても、私はあなたのなされることをイエス・キリストにあって受け入れることができます。」