0537_細い指圧棒でぐりぐりされて、凝り固まった信仰生活にすごく効く

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主を本気で求めているか

先日Youtubeの説教で耳に痛い言葉をたくさん聞きました。いずれも自分に当てはまっていているので、備忘録として記録して、何度も見返して自分の信仰生活に役立てたいと思います。

主はわたしたちに本気で主を求めるようになってほしいと思っている。クリスチャンは自分が主を求めていると思っているが、多くの場合は本気で求めることができていない

本気で求めているとは状態です。状態によって行動が変わります。もし、自分の行動だけを変えようとしたら、間違いなく義務や習慣になってしまいます。もし毎朝祈ろうとか、10分は祈ろうとか、聖書を5ページ読もうとか行動から自分を変えようとしても意味がありません。

自分の状態を見る限り僕が本気でないことは明確です。僕自身の魂には日々ほとばしるほどの神様の愛の感動があるだろうか。自分にとって祈りは至福の時であるのだろうか。

神様に集中できない時代

現在の日本は迫害がない時代。信仰を捨てるか否かを迫られるような迫害はないが、かつてないほどに誘惑が著しく多い時代に生きている。迫害はなくても神様に集中できなくなっている時代。

僕は毎日スマホを触っています。検索欄に自分の好きなキーワードを入れるだけでたくさんの自分の欲望を満たしてくれる情報が一瞬で提供されます。それに夢中になっています。それが無益だと思っていても検索しているのです。現代は、世の楽しみ、世の快楽、世の栄華の欲望が増しています。僕自身はそれに心が奪われて神様に集中できなくなっています。

主も求めるしこの世も求める

主だけを求める者になっていない。この世の中も求めているし、神様も求めている。アダムとエバは神様、命の木だけを見つめていれば不足はなかった。もし主の栄光だけを見つめていれば、守り、祝福、いやし、きよめがあったにもかかわらず、目をそらしてしまった。それと同じことを私たちはしている

イエス様がすべてを満たしてくださるお方です。確かに僕が神様の愛を知った時はイエス様の中にすべての満たしがあると感動していました。この世のものは自分の魂を満たしてくれないけれど、このお方にはすべてがあり、この方を求めればすべてを得られるのです。そういった気持ちが明確にありました。

しかし、いつしか、僕はイエス様だけじゃ無理だよねと思うようになっていました。巧妙な考えで、伝道するには世の中のことも知る必要があるし、仕事をするには世の中に入り浸らないとと伝道や生きていく上で必要な仕事という都合のいいキーワードで自分を勘違いさせていたのです。

まず主の愛に帰りたいです。

おっさん
■もし僕がイエス様で満足していないなら、この世の中のものも求めてしまう。イエス様だけがすべてを満たすことができる方、命の源、信仰の創始者

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