主への賛美
最近は聖書の詩編を読んでいます。今の自分の状況においては詩編を読むのが適切と考えたからです。いつもですと当然ながら1篇から読み進めます。しかし、今回はそれだと習慣的に読み進めてしまい、気づきをスルーしたり、大切なメッセージを見逃してしまうことがあるのではないか?と思いあえて最後の詩編150篇から読み始めました。
詩編150篇は壮大に主を賛美するところから始まります。まずはそれが今の僕にとってよいことでした。なぜなら主への賛美は自分を本当の正しい位置に導いてくれたからです。
御言に自分の霊的な叫びを一致させる
読み始めてから数日経過しますが、未だに詩篇142篇で止まっています。それはダビデの詩篇がストレートに自分の魂に響いてくるので、ページをめくって次に読み進めることができないのです。詩編の御言に自信の魂を寄せて、合わせて、その御言に自分の霊的な叫びを一致させることが僕にとって大きな慰めとなっているのです。
たとえば、この御言をシェアします。
わたしはあなたにむかって手を伸べ、
わが魂は、かわききった地のように
あなたを慕います。
主よ、すみやかにわたしにお答えください。
わが霊は衰えます。
わたしにみ顔を隠さないでください。
さもないと、わたしは穴にくだる者のように
なるでしょう。
詩編143篇6-7
魂においては主にあって平安である
ここでダビデは「我が霊は衰えます」と主の御前に心を注ぎ出しています。僕は意外に思いました。なぜなら、クリスチャンであれば、たとえ肉においては苦しみがあっても、魂においては主にあって平安であるのが定説だと思っていたからです。確かにこの考えは正しいでしょう。
しかし、大切なのは「主にあって」です。僕は自分が主にないのに自分は平安だと思っていたのです。日常生活を送る中で肉においては確かに毎日お通夜のような気分かもしれない、しかし、霊においては主にあって平安だと思い込んでいたのです。
ありのままに主の前に出る
しかし、ダビデは本当に「主にあって」を体験した人でした。その秘訣はこれです。彼はただ自分の今の状態のありのままを主の前に注ぎだしたのです。ダビデは「クリスチャンだったら霊的に弱ることがない。むしろ、そうなる人は不信仰だからそう思いたくない。」とは考えなかったのです。
むしろ、正直に主の前に告白しました。
私の霊は衰えています。
私の魂は渇いています。
主よ、お助けください。
僕は本当にはっとしました。「そうだ。主の前にクリスチャンらしくと思わなくていいのだ」と。僕はありのままに主の前に出ることを教えられました。