1278_主が求められていたのは僕の受け取る手ではなかった

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意欲が完全になくなってしまった

ここ数週間は身体的(親知らずの抜歯や体調不良)にも霊的(自分よがりの信仰の否定)にも様々な体験をしました。その体験が影響しているのかはわからないのですが、何をするにしても意欲が全く湧かなくなりました。より厳密に言えば、自分の肉による意欲が完全になくなってしまったのです。

例えば、以前ですと仕事に対する意欲や熱意がある程度あって、祈りつつもその意欲をもって仕事にあたっていたのですが、仕事を始める以前は全くやる気が出なくなってしまったのです。

僕には全く仕事をする意欲がありません

今日は特に3連休明けであったためやる気が起きませんでした。当日朝起きた時点で労働意欲が皆無だったので今日は仕事ができるか心配でした。だから、就業までに聖書を読んで祈りました。

「主よ。僕には全く仕事をする意欲がありません。主よ。どうかあなたにあって仕事をする意欲を与えてください。」

そう祈ってから仕事に着手しました。着手する前は自身の労働意欲から判断するに今日の仕事の進捗は悪いだろうと思っていました。しかし、驚いたことに着手し始めるとやる気満々という意欲ではなかったのですが、穏やかで静かで冷静に仕事に取り組む心が与えられていることがわかりました。仕事を進めるために必要なアイデアも労働意欲も主が与えてくださるのがわかりました。

主がともにいてくださった

この状態は主が与えてくださっていたというよりも主がともにいてくださったという表現がより正確かもしれません。なぜなら、僕自身は依然としてやる気がなかったからです。霊的な領域で主が僕の手をとり足をとり、動かしてくださっているような感覚でした。

主の前に自己否定するということはこういうことなのかもしれないと思いました。僕にはこれまで、主から何かを与えられてそれによって自分で頑張るというような考え方がありました。主から勇気、力、知識、知恵、喜び、楽しみを頂いてそれをもとに自分で頑張るという思考です。

受け取る手すら不要

しかし、実際は僕はそれらを受け取る手すら不要だったのです。主が必要とされていたのは僕が受け取る手ではなくて、僕の悔い崩れたひざだったのです。そのへりくだりは、自分の人生に必要な副次的なものではなくて、最も大切なイエス様ご自身を求めさせました。

僕は相変わらず社会不適合者であり、神様に対して不遜な者であり、主の前に喜ばれるような生き方はできないものです。しかし、自分を否定して主の前にへりくだることはできると思います。これは卑下でも自己憐憫でもなく主に対する降参の態度です。

彼は必ず栄え、わたしは衰える。
ヨハネによる福音書 3:30

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