個別のケースに対応するため
昨日は、イエス様は愛してくださっていて、義に導くために僕を叱責されることがあると書きました。その証拠として、イエス様は律法学者やパリサイ人には厳しかったですし、聖書にも「人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」とあると書きました。
しかし、これはイエス様が完全に個別のケースに対応するためであり、決して全員に対してそのようにされるわけではありません。しかし、僕の経験上、高慢になっていたり、高ぶっていたり、誰かを赦せていなかったりすると、比較的叱責されるケースが多いと思っています。
また一度救いに救いにあずかっている人に対しても比較的厳しいお言葉をくださることが多いと思います。何度も書きますが、それは愛してくださっているがゆえにです。
イエス様を知らずに罪で苦しんでいる人に対して
逆にまだイエス様を知らずに罪で苦しんでいて、弱っている人にはそういったお言葉はおかけにならないです。「私もあなたを裁かない」や「あなたは癒された。もう罪を犯さないようにしなさい」など、憐れんでくださって救いのお言葉をくださいます。
僕もイエス様を本当に知る前は適当な罪深い生き方をしていましたが、イエス様はそのありのままの状態を受け入れてくださって、「私と一緒に歩もう」とおっしゃってくださいました。それは聖書にも書かれている通りです。
しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
ローマ人への手紙 5:8
信仰生活において成長する
信仰生活において成長するか否かは、固い食物を食べられるかどうかにかかっています。信仰生活の初期段階では柔らかい食物を食べながら成長します。それは赤ちゃんが成長する過程と似ています。柔らかい食物とは「私もあなたを裁かない」や「あなたは癒された。もう罪を犯さないようにしなさい」とか「私はあなたを愛している」とか「わたしはいつも共にいる」などの言葉です。
しかし、大人になってもまだ十分な量もない離乳食やすりつぶしたかぼちゃのスープを飲んでいたら成長しません。固い食物が必要になります。それが時に聖書に書かれている厳しい言葉であったりするのです。
堅い言葉とはたとえば、「キリストも肉において苦しんだのだから同じ覚悟で武装しなさい」とか「私を愛するとは戒めを守ること」とか「自分の十字架を背負って従う」とか「人を裁くな」とかです。
霊的に自分に死ぬことを要求される
肉は柔らかい聖書の言葉は受け入れやすいですが、固い言葉に対しては激しく抵抗します。なぜなら、それらは肉を完全否定する言葉ばかりだからです。誰だって自分は死にたくないものです。しかし、聖書の言葉は霊的に自分に死ぬことを要求するのです。
しかし、もし霊的に自分に死ぬことさえできれば、クリスチャンとして成長していけるのだと思います。