クリスチャン誰もが経験しうること
昨日はクリスチャンとは主の恵みの中を生きるものでありながらも、簡単に恵みから落ちてしまい、時には恵まれている人さえも妬ましく思ってしまう汚さを持っていると書きました。これは他人のことを書いているのではなくて自分自身のことを書いています。自分自身のことだからよくわかるのです。
といっても、聖書に登場する律法学者やパリサイ人に共通する点があるので、個人的な体験だけにとどまらないクリスチャン誰もが経験しうることだと思っています。
主の恵みとは?
では、主の恵みとは何でしょうか?恵みの雨とはなんでしょうか?心に平安がおとずれ、心が喜び楽しみに満たされることでしょうか?それは恵みを受けた結果であり、心の変化であり、それ自体は恵みではないと思っています。
主の恵みとはイエス様の十字架そのものです。王座に座っているべきお方が、へりくだり、人となり、貧しい人となり、苦しみを背負い、ついには天の父に見捨てられるとう経験をしてまで人を愛してくださったということです。
イエス様の十字架
僕はこんなことを思ってしまうことがあります。「あの人といたら疲れる」とか「あの人と話したらメンタルもっていかれる」とかです。しかし、これは僕が他人に思われていることでもあります。しかし、主は「あの人といたら疲れる」とか「あの人と話したらメンタルもっていかれる」と言わず、逆にその人のそばまで来て、共に悲しみ、苦しみを負ってくださったお方です。
本来なら神様と共に歩む資格のない者のそばに主がきてくださったこと、これは恵みです。また、野に朽ち果てて死んでしまっても誰も気にしないような僕のために命を捧げてくださったこと、これも恵みです。それこそがイエス様の十字架です。
イエス様の十字架の恵みだけですでに十分なのに
僕はよく思うことがあります。それはイエス様の十字架の恵みだけですでに十分なのに、なぜまだ自分のために主に求めるのだろうと。それは自分の子どもが癒されることも含まれています。自分の子どもの命が助かることも含まれています。
天の父は一人子の命を惜しまずに愛してくださったのに、僕はまだ自分の子どもの命を求めているのです。聖書には「あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。」とあるので、祈ること自体は間違ってはいないと思います。しかし、ヨハネが一貫して書いているように、主と心ひとつになったこと(主の御心)だけを求める者になりたいとも思っています。