1699_牧師先生や教職者と言われる人は具体的に1日に何回、いつ、どのくらい、どのように祈っているかを信徒に語るべき

座禅は厳しい

今月、会社の社員旅行があるのですが、社長が僕にこのようなことを聞いてきました。「社員旅行のアクティビティで座禅をしようと思ってるんだけど、〇〇君は宗教的に大丈夫?」僕は「マインドフルネスのような一般的なものであれば問題ないと思うのですが、座禅は厳しいのでホテルで待っておきます。」と答えました。

そうすると、社長は「やっぱりそうやんね。やめとくわ。」とおっしゃって座禅はなしになりました。

個人的な祈りはあまりにも隠されすぎている

僕は数か月前からマインドフルネスについて興味があります。それは何も自身の信仰に変わる何かを探しているわけではなく、なぜマインドフルネスが一般の人に受け入れられているのか疑問に思っているからです。世界中では、主婦、学生、ビジネスマンまで多くの人がマインドフルネスを実践しています。

僕は単純にこのように思ったのです。キリスト教会における個人的な祈りはあまりにも隠されすぎているということです。

パブリックにおいてどのようにパブリックな祈りをするか

僕の母教会はペンテコステ派で祈りには力を入れていたほうだと思います。年中、大小多くの祈祷会があり、集会のあとには信徒それぞれが礼拝堂の前に跪いて祈る習慣すらありました。正直、僕の信仰の原点はこの礼拝後に跪いて祈るところにあります。

しかし、それはいわばパブリックにおけるプライベートな祈りです。僕が強い関心を抱いているのは、プライベートにおいてどのようにプライベートな祈りをするかなのです。これは完全に隠されており、誰もそのことを多く語りません。具体的に1日に何回、いつ、どのように祈るかなどです。

重きは御言

具体的な方法として公開されているのはディボーションに関してです。それは確かに祈りと賛美のうちに行われます。しかし、重きは御言にあります。読んだ聖書箇所を黙想し、咀嚼し、そこから主の語りかけを待つということに重点が置かれています。

僕はほとんど牧師先生でさえ個人の空間でどのように祈っているのか?を知りません。具体的に1日に何回、いつ、どのくらい、どのように祈るかです。

模範としてあるべき姿をみることは非常に重要

世間一般にはマインドフルネスという手法が受け入れらています。僕は牧師先生や教職者と言われる人は具体的に1日に何回、いつ、どのくらい、どのように祈っているかを信徒に語るべきだと思います。具体的に実践する方法を教えるべきです。もちろん、ノウハウから入っても信仰には役に立たないと思います。

しかし、模範としてあるべき姿をみることは非常に重要です。それがわからないから僕は自分なりにずっと試行錯誤しています。

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