0598_自分は裁かれることはないと思っているからぬるま湯の人生なのか

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ぬるま湯の日々

最近はブログで気が抜けているとか日常に緊張感がないなどと書いていました。僕自身は常在戦場の精神ではなく、安逸の場所で楽に生きようとしているのではないかと感じ始めていました。今日の教会で語られた御言が今の自分の状況に全く当てはまっていたのでここに学んだことを書いておこうと思います。

今日の中心聖句は下記でした。

それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。
ペテロⅠ1:13

その原因

僕の日々の生活に緊張感がない理由はこの聖書箇所に書いてあるとおりです。つまり、自分の心の腰の帯を緩めて、身を慎んでいないのです。ありていにいえば、キリストが再び来られる恵みをそれほど待ち望んでいないからです。

日々の生活に満足してしまっているのです。キリストが再び来られるということがどれほど重く栄光あることなのか、というのがわかっていないのです。言い換えると信仰がないのだと思います。そこで、今日牧師先生は、2つのことをおっしゃっていました。

裁きを行われる神

1つ目は神は愛あるお方である一方で、義なるお方であるということです。義なる神は裁きを行われる神なのです。聖書にはこのように書かれています。

すなわち、あなたがたを悩ます者には患難をもって報い、悩まされているあなたがたには、わたしたちと共に、休息をもって報いて下さるのが、神にとって正しいことだからである。それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。
テサロニケⅡ1:6-9

聖書は決して忖度しません。はっきりと裁きのことが書かれています。しかし、僕の日々は、愛なる神という側面だけを見て、裁きの神という一面を見ないようにしていたのです。それが日々の緊張感がかけている理由の一つです。

負うべき課題

2つ目は、負うべき課題を負っていないから気を引き締めることができていないのです。自分に対して負う課題は神様へのへりくだりです。人間は簡単に高慢になってしまいます。「自分」が祈ったからとか「自分」が聖書をよく読んでいるからとか、「自分が、自分が」マインドになってしまって、いつしか、神様の前に高慢になっていることがあるのです。そういった自分の弱さを自覚して、へりくだり続けるということが必要です。

他人に対して負う課題は福音を伝えることです。自分だけがよければいいという神様の愛から全くかけ離れた状態になってしまっているのです。今一度、本当に悔い改めて、正しい信仰生活に是正させていただけるように祈ります。

おっさん
■日々の生活に緊張感がかけているは正しく神様を知ることができていないからだろう

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