1037_なぁなぁな気持ちで王なる主の前に出ること

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王なる主

今日礼拝で賛美していた歌詞に「王なる主」という言葉が非常に印象に残りました。それは王なるお方の前に立てる人はどういった人だろうか?と考えたからです。普通に考えたら、特別な人や地位の高い人だけが王様の前に立つことができます。しかも、畏れかしこみつつ御前に出るのが普通です。一般の民衆はきっとせいぜいパレードがある時くらいに大通りに出て小さな王様を見るくらいのものだと思います。

しかし、王であるイエス・キリストは無名のなんの特別感も地位もない一介の罪人を受けれてくださり、その御前に立つだけでなく一緒に食事をすることも許してくださったのです。

自分が王子だったら

その時にもう少し想像を膨らませてみました。もし、自分の父が王様だったら王子である僕はどのようにふるまうのだろうかと。きっとプライベートな時間は父という存在で親しく交わって愛の関係の中にあるのだと思いました。一方でも仮に父が王様として儀式を行っている時はきっと父としてみるのではなく王として父を見て、畏れ、畏敬の念を持ちつつ接するのだろうと思いました。

もし、父が王としてふるまっている時に僕が父として甘えるようなことがあればそれは無礼であり、周りからみてもおかしなことだと思われるでしょう。僕が言いたいことは、間違っているのかもしれませんが、神様との関係もTOPが大切だということです。

TPOは大切?

一人で祈る時は神の子として父に甘える時間は必要だと思います。神と人との最も大切な関係は罪が赦された者と罪を赦した者との関係だからです。そしてその関係こそが、神との愛の関係です。しかし、例えば教会での奉仕などでは神を王として仕えられるべきお方として、畏れ敬い主に仕えるのだと思います。

ようは奉仕をする時に甘えがあったり、なぁなぁであったりするのは少し違うのだと思いました。

きよめられる必要

僕はどちらかといえば天の父の関係よりの信仰が強調されていると認めています。イザヤやモーセやヨシュアが主の前に立った時ほどに主を畏れていないことも認めています。しかし、主は王であって神であって仕えられるべきお方です。

それは霊的に成長する中で、祈りの中で主の聖さに触れる時に引き上げられているものだと理解しているので、自分のきよめを追求していきたいと思います。

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