1243_利他で生きている人は神第一の生活がしやすい

神第一として生きる

クリスチャン生活をしていく中で必ず通らないといけないことがあります。それは生き方を自己中心から神中心に置き換えるということです。これは書くに易しですが、行うに難しです。それは、たとえ自分が神中心に生きれていると思っていても、それはある一面においてに限定されている場合があり、完全に神第一として生きるのは容易なことではないからです。

具体例を挙げれば、毎週教会に行って礼拝をして什一献金をしているからといって完全に神第一にして生きれているわけではありません。1週間7日間あるうちの1日に限定されていてはそれは神第一とは言えないと思うからです。

利他で生きる姿勢

僕自身は神第一で生きれていると思っていた時期もあれば、自己中心と神中心を混在させて都合よく生きていた時期もあります。僕はずっとそういった姿勢は霊的な領域のことだと思っていたのですが、実際は利他で生きる姿勢が身についている人たちはすぐに神中心に置き換えられるということを知りました。

例えば、昔の人たちは利他で生きる姿勢が自然と身についていました。今ならヤングケアラーとして問題視されるようなことも昔は当たり前でした。教会のおじいちゃんの話を聞いたりしていると、昔はお父さんのたばこの葉を紙で包むことをしていたり、たばこのパイプを洗わされたりしていたそうです。

利他で生きることがどういうことなのか?

こういった家族のために利他で生きる習慣が子供のころからある人が神様を信じた時、自己中心から神中心への置き換えが比較的自然とできていると思ったのです。自分の時間を捨てて、時間がなくてもすべての集会には参加する。子供が小さくてもおんぶして祈祷会に参加する。という甘えのない徹底された神第一は昔の人にとっては当然のことのようでした。

しかし、僕も含めて現代を生きる人たちは、自由主義の名のもと子供のころから比較的自分のやりたいように生きてきていたため利他で生きることがどういうことなのか?ということすらわかっていないのではないかと思いました。それは僕自身がそうだったからです。

軸を自分から子供中心に移す感覚

僕は生まれて初めて利他を知ったのは、遅まきながら子供が生まれてからでした。これまでは自分の時間は毎日必ず必要だとか思っていたのですが、子供が生まれるとそういうわけにはいきません。自分の時間など完全になくなるのです。

最初は本当にこれでやっていけるのか?と思ったのですが、人間には適応能力があるので自分の時間がなくても生きていけるようになりました。そして、軸を自分から子供中心に移す感覚を初めて知ったのです。

神第一の土俵に立つために

その感覚が神中心に生きるということが実際的にどういうことなのか?ということを教えてくれた気がしています。もちろん、完全な神第一はこんなものじゃないと思います。完全に近づけば近づくほどそれは完全な献身が求められ、より霊的な領域のことになってくると思います。しかし、まず神第一の土俵に立つために自己中心から利他の感覚をもつことは非常に大切だと思いました。

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