キリスト中心の夫婦関係が信仰を守る土台になる | 制約の中で見える守りの価値

キリストを中心とした人間関係

最近は夫婦における信仰について学ばされています。それは嫁さんがいて自身の信仰が守られたと感じることが多いのです。

2000年前に教会が誕生したように人間は教会というコミュニティーや人間関係の中で信仰が成長するものだと思います。あのパウロでさえ人間関係の中で励ましを受けていました。彼は獄中で多くの人が自身から離れていく中でルカだけが共にいると書いています。人はキリストを中心とした人間関係の中で生きるものなのだと思います。

神様に選ばれたわずか数パーセント

しかし、インドの聖人と言われているサンダーシングなどはその例外のようにも思えます。彼は山にこもって祈る生活、1日に何時間も祈る生活、そして布教活動を中心とした生活を送っていました。彼の伝記を読む限り、彼はほとんどキリストとの交わりを中心に生きていました。一見、彼には誰の助けも必要もなかったようにも思えるほどです。

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もしかしたら、神様に選ばれたわずか数パーセントの人たちだけはサンダーシングのような生活ができるのかもしれません。きっと、多くの人はサンダーシングのような生活はできないでしょう。

両親の教育

僕の場合、信仰に関しては両親の教育から始りました。当時子どもながらに嫌だなと思うことが少しあったことは認めます。しかし、それでも僕は両親に教会に行くこと、奉仕をすることをしっかりと教えてもらいました。そして、家庭では母の祈る姿、父が主により頼んで必死で仕事をする姿を、OJTならぬOFT(On The Family Training)で教育されたのです。

家庭には父と母の存在がありました。その存在が僕の行動にかなりの程度の制御をかけていたと思うのです。それは祈りによる霊的な守りともいえますし、二人の存在自体が僕の行動を制約していたとも言えます。これは決して自由を奪うのではなく、聖書に基づいた範囲で本当の自由を得るための制約であったと思います。

嫁さんの制約の中

そして、今僕は言葉はわるいですが、嫁さんの制約の中にいます。もちろん、僕は嫁さんに「聖書読め」とか「教会行きなさい」とか言われているわけではありません。ただただ、嫁さんの存在が僕の行動を制約してくれているのです。そして、たとえ、「今日はなんか祈りたくないな」と肉が活性化されることがあっても、嫁さんと聖書を読んで主の前に出ないといけない状況が僕を守ってくれているのです。

ある人は一人で信仰を保てるかもしれません。しかし、それは道からそれているかどうかは本人にはわからないものです。もし、自分がサンダーシングのような選ばれた器でないと思うなら、絶対に教会や人間関係の中で信仰生活するほうがいいと思います。

箴言 14:12
人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある。

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