1822_罪でないなら大丈夫なのか? | あなたの心はどこにあるのか?

どのような状態

「自分の信仰は今どのような状態にあるか?」を確認するために僕はいくつかの指標を使っています。わかりやすいものでいえば「最近祈っているか?」や「聖書を読んでいるか?」などがあります。祈れば力があるが祈らなければ力がないというのはよく言われる言葉です。祈りの時間は霊的な状態に直結します。

時間は思っている以上に非常に大切です。僕は祈りに関しては質より量だと思っています。なぜなら、自分の祈りの質が高いなどとは全く思わないからです。だから祈りの時間や御言に触れる時間は重要な指標です。

何にひかれる?

その次に見逃せないのが「自分がどのようなものにひかれるか?」です。霊的な状態が良ければ、主の愛に満たされていれば、魂が満たされていれば他の何ものにもひかれることはない。と仮定します。

もし、逆に僕が何か他のものにひかれている場合、それは僕の霊的な状態がよくないということを証明します。たとえば、普段見ないようなテレビを観たくなる、Youtubeを何時間も見てしまう、これまで手に取ったことのないような本を読んでしまう。などです。

罪ではない

今まさに僕自身そのような状態にあります。僕は先日Youtubeで高校時代に聴いていた音楽を何時間も聴きました。別にそれ自体はなんら悪いことではないでしょう。普通の音楽です。懐かしくノスタルジックにもんります。それは罪ではありません。しかし、そこに盲点があると思うのです。僕の心はそっちにもっていかれていたのでした。

「自分が今何にひかれているのか?」に関して、何かに夢中になったり、時間があっという間に過ぎてしまうという時間は自分がそれにひかれてしまっていることだと思います。

宝のある所

普通、クリスチャンは「罪ではないなら大丈夫」と思いがちです。しかし、そうではありません。聖書はこのように言っています。

マタイによる福音書 6:21
あなたの宝のある所には、心もあるからである。

自分の心がひかれるところに宝があるのです。もし、キリストが自分の宝なら自分の心はキリストにひかれるはずです。しかし、もし他のものにひかれるならそれこそが自分の宝なのです。

この御言は僕にとって耳に痛いです。なぜなら、自分はCS教師で「あなたはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と主から離れないと語っておきながら、僕自身の心が主から離れてしまっていることがあるからです。僕は今日も悔い改めなければなりません。

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