イエス・キリストを知っている
イエス・キリストについて知っていることとイエス・キリストを知っているのとでは全く違います。たとえ信仰がなくてもイエス・キリストについて知っている人は多くいると思います。しかし、信仰は人から聞いた話や聖書や書籍で読んでイエス・キリストについて知っている状態ではなく、イエス様ご自身を知っている状態のことです。
それは例えば様々な食材について栄養の知識は豊富にあるけれども口にしない人と、豊富な知識はないけれども食材を食べて自分の栄養にしている人と似ています。信仰とはどこまで行っても個人的な出来事であり、個人的にイエス・キリストと出会わない限り「について知っている」状態で止まってしまいいます。
聖書の言葉を行っている
同じように聖書の言葉を知っているのと聖書の言葉を行っている、あるいは行おうとしているのとでは全く違います。もし聖書の言葉を聞くだけで行わない、あるいは行おうとしないならばその聞いたものは聞かなかったこととほとんど同じになってしまいます。なぜなら、行うかどうかで信仰が試されるからです。むしろ行おうとしないことは信仰がないことと同じといえるかもしれません。
もし説教で「神を第一にしましょう」ということを聞いたとしても翌日から始まる月曜日からそれを具体的に実践しないとなんの意味もありません。自分のこれまでのクリスチャン生活を顧みてもそう思うのですが、人間は聴くだけで満足してやろうとしない傾向が著しく強いということを認めないといけないと感じています。
行おうとしている状態
聖書の基準は非常に厳しいのでそれを行うのは難しく感じることが多いです。最も大切なのは行っている状態だと思いますが、同じように行おうとしている状態も大切だと思っています。行おうとしているけれども自分の弱さのゆえに行えない状態で、御言と自分自身が戦う過程が大切なのだと思います。
パウロがこのように言っています。
わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。
ローマ7:15
わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。
ローマ7:18
行おうとするときに自覚すること
パウロが書いているように、行おうと思わなければ自分のうちに善なるものが宿っていないことに気付かないです。自分にはそれを行う力がないと自覚することにより、はじめて、本当の意味で神様に頼らないと何もできない者であることがわかります。
日常生活を送る中では様々な誘惑があり自分の弱さに気づくことが多いです。それでも、神第一の日常生活とはどういったものなのか?という問いに向き合って生活の隅々までを改善していきたいと思っています。