1040_神が存在しないように思う街を歩いていて思ったこと

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この街で

先日出勤途中オフィス街を歩いている時にこんなことを思いました。高層ビルや近代的な建物が立ち並び、多くの人はわれ先と無言で急ぎ足で歩いています。この街を見る限り神様が存在していることなどに思いを馳せるのは難しいと思ったのです。もちろん、日本には神道の思想が生活のあらゆるところに染みわたっており、八百万の神があらゆるところに存在すると信じています。

しかし、それはあくまでも歴史的な場所や自然などに感じるものであって、近代的な都市に八百万の神はイメージしにくいです。

否定できないこと

こんなに神様の存在が無視されたような場所でも否定できないことがあります。それは僕の心の中で起こったことです。たとえ、この街が神の存在を否定しても、あるいは、誰かが救い主であるイエス・キリストや天の父を否定したとしても、僕の心の中で起きたことは否定のしようがありません。

そして、17歳の時に僕の心の中に起きた大きな変化は今に至るまでずっと続いているのです。2000年前に救い主が僕のために死んでくださったという単なる情報ではなく、生々しく魂に起こった救いだったのです。

主観的な体験は

その体験はどこまで行っても主観的なものです。もしこの救いがアウトプットされなければ誰にも伝わることなく本当に主観的な体験だけで終わってしまいます。しかし、このイエス・キリストが僕の人生を通して現わされる時に、その人にも同じことが起こり、「あぁクリスチャンが言っていたことはこういうことだったのか」と思うようになるのだと思います。

聖書にはこのように書かれています。

しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。
ローマ10:14-15

この神が存在しないように感じる街で必要とされているのは宣べ伝える者で遣わされる者なんだと思いました。

何をすべきか

今の状況に対していろいろと思うことはあったりもします。しかし、今朝祈っていて思わされたことは「つべこべ言わず、主を待ち望む」ということでした。周りは見ない、人は見ない、環境に左右されない。「あなたは私を待ち望むのか?」という語り掛けに失望せず、動かされず応えていきたいと思います。

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