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主観がすべて
当然のことですが、人は主観で生きています。それは自分だけが自分の人生を生きているからです。だからこそ、自分に言われた言葉に一喜一憂したりします。自分が受け手で、自分がそれを感じるのです。嬉しいことも悲しいことも、楽しいこともつらいことも、良くも悪くも自分が感じるものです。
おそらく、誰でも願わくば、嬉しいこと楽しいことだけを感じて生きたいと思うのではないでしょうか。なぜなら、誰でも、悲しみ、痛み、つらさ、苦しみを味わいたくないからです。
主観から離れるヒント
こういったネガティブな感情との向き合う方法はいくつかあります。例えば、内省の時間をもったり、誰かと対話する時間をもつことは有益です。そういった時間により、一時的に客観的に自分を見つめることは可能です。
そういった時間によって、主観で受け止めた感情を書き換えたり、解釈を変えることすらできます。どれだけネガティブな感情が心に書き込まれていたとしても、客観的に自分を見ることによって、理性によってポジティブな感情に書き換えることすらできます。
主観から離れる限界
しかし、困難を覚えるのは、刻一刻と変化する日常生活においては、その一瞬一瞬は主観で受け止めるしかないということです。だからこそ、時に悲しくなったり、イラっとしたりして感情的になってしまったりします。また、たとえ、どれだけ理性で書き換えを行ったとしても、感情がついていかないということもあります。
人間は、こういった主観的な自分の反応に対してどのように立ち向かっていけばいいのでしょうか。
聖書が教えるヒント
聖書は一つのヒントを与えてくれています。それは、「自分に死ぬ」というヒントです。まず、主観ですべてを受け止めるところは変わりません。悲しみ、痛み、苦しみ、つらさを受けとめることは変わりません。聖書が「あなたがたはこの世では悩みがある」と明言しているとおりです。
しかし、次の段階で、内省や人のところに行くのではなくて、イエス・キリストのところに行きます。なぜなら、その解決方法は先ほどの聖書の続きであるイエス様の言葉「しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」にあるからです。
これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。
ヨハネ16:33
主観が変わる時
この聖書の言葉のように、イエス様のところに行くときに、大きな慰めや平安を得ることが多くあります。しかし、それ以上に、「自分自身の砕かれないといけない思い」をイエス様に教えて頂くことが多くあります。そして、その思いに気づき、悔い改めて、その思いを十字架につけるというプロセスを通して自分自身が練られた器に造り変わっていきます。
なぜこんな自分が練られるプロセスが必要なのか?それは救われたのちも霊的な存在でありつつ、肉的な存在でもあるからです。イエス・キリストによって、肉を無力化する作業は死ぬまで必要なのです。
このプロセスは僕にとって、とても喜ばしいものじゃありません。つらいプロセスです。しかし、このプロセスこそが「自分に死ぬ」というものだと認識しています。そして、この練られる工程からこそ品性の実が結び、少しづつ、主観からくる過剰反応が抑えられるのだと考えています。