1261_週報を折る時に少しでもずれていると文句を言ってくる人たち

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週報を作成する奉仕

毎週土曜日の午前中は教会に行って翌日の週報を作成する奉仕をしています。この奉仕は僕にとって恵み以外の何ものでもありません。日曜日の前の日から週報を手で一枚一枚折ったりする中で心が主に向けられていくのを強く感じることができからです。

また奉仕者5名ほどとワイワイガヤガヤおしゃべりしながらできるのもひとつの楽しみになっています。神様との縦のつながりと兄弟姉妹との横の繋がりを感じることができるのは教会の特徴の一つです。奉仕に携わる時にこのような大きな祝福にあずかることができます。

文句を言ってくる信徒

今日は週報を折っている時に思い出したことがありました。それは数か月前に嫁さんの母教会に行って、別の週報などを折る作業をしていた時のことです。僕が週報を折って嫁さんに「こんな感じでいい?」って聞いたら、少しのずれもなくもっと正確に折らないといけないと言われました。

それは決して嫁さんが神経質なわけではなくて、それを理由に文句を言ってくる信徒の方がおられるようなのです。そして、決まって文句を言ってくる人に限って何もしないそうです。

僕はこのエピソードを思い出した時にこう思いました。それは、誰であって何もしていないのに限って口を出したがる性質があるということです。

本当に口だけだな!

この誰だってにはもちろん僕自身も含まれます。僕は思い出せるだけでも結構たくさん何もしていないのに口だけ出したがっていたことがあったと思いました。これは自分が自覚できているものだけなので実際は氷山の一角でもっとたくさんあっただろうと思います。そのたびにきっと周りの人は「本当に口だけだな!」と思っていたことでしょう。

人間がこのような性質をもっていることをイエス様は鋭く見抜かれて、そういった人間に対しての御言の処方箋を与えてくださいました。

なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
マタイによる福音書 7:3-4

自分に対しては盲目

自分に対しては盲目で他人に対してはよく見えるというのは、当たり前のことだと思いました。なぜなら、罪がそうさせているからです。そして、キリストに出会って自分に対する罪が明らかにされて、それを悔い改めたとしても、時々刻々と主によって光を照らしていただかなければ、目を開いていただかなければ、教えていただければ、人間はすぐに他責になってしまう可能性があるということです。

今日も悔い改めます。

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