1895_信仰観の変化について | かつては幼子らしく語り、感じ、考えていた

強く押し迫ってくる感覚

昨日は自身の信仰が成長しているかをどのようにして知ることができるのか?と言うことについて書きました。今日は僕の信仰観の変化について書こうと思います。まず、僕が救われた当時は聖霊の満たしや聖霊の導きや主の臨在といったものが常に強く押し迫ってくる感覚がありました。

礼拝、聖書を読む時、祈る時、その他、普通に電車に乗って賛美を聞いている時でさえ、神様の愛深く自分に迫ってくるのを感じて涙を流すということが多かったです。そして、当時の僕の中心は主にある喜びでした。これは聖書的であり、間違っていないと思います。

ピリピ人への手紙 4:4
あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。

幼子

しかし、当時は僕は幼子でした。当時から聖書を何度も通読し暗唱聖句はしていましたが、感覚的側面において主を認識するということだけを求めていました。心に喜びがないなら不安になり、心に静けさがないなら主は共にいない、というような感覚に左右されていたのです。

これでは日常がジェットコースターになります。主は少しずつ、その感覚主義から僕を導いてくださいました。その過程やきっかけは下記記事に詳しく書かれています。

自分が打ち砕かれ否定される

それから感覚主義ではなく御言にそう書かれているから信じるだけという御言に対する従順さを学びました。これでようやくクリスチャン信仰の基礎が築かれました。それから主は僕の気質を取り扱われるようになりました。

僕は末っ子長男だったので非常にわがままで難のある人間でした。何でも言わないと気がすまないという側面は多くの人を傷つけてきたと思います。しかし、社会に出て人と関わる中で、自分が打ち砕かれ、否定されることで自分が変わっていくのを感じました。これは主からのプレゼントです。

主と共に悲しむ

そして、昨年は主と共に悲しむ、痛みを負うということを教えて頂きました。僕は長い信仰生活の中でやはり平安、喜び、平和などを重要視していたように思います。主に従うと言いながら、主の十字架を無視する生き方をしていたのです。

今日、聖書を読んでいてこの御言が心にせまりました。

コリント人への第一の手紙 13:11
わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。

僕は本当に長い間、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていたと思います。今はまだ成長過程にあると思いますが、24時間、365日、幼子らしいことを捨てて主にあって大人になりたいと願っています。

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