人のよわいはわずか
僕はもう37歳になりました。人生70年と仮定するともう人生を折り返しています。教会において僕の父親世代の人が天に召されたことを聞く度に人のこの地上における存在が一瞬であることに気づかされます。
子どもの頃、あんなに元気で現役でバリバリだったおじさんたちが、わずか数十年の間におじいちゃんになっていて、この地上での務めを終えて天に召されているのです。
この事実は僕に大きな衝撃を与えました。永遠という存在において、この地上での100年などは本当に点以下の小さな時に過ぎないのです。塵に過ぎない存在、風吹かれゆく霧、朽ちて枯れゆく草花のような存在です。
死んだら意味がない
人がどれだけ何かを残そうと努力しても、裸で生まれて裸で死んでいきます。そして、どれだけ大きな偉業を成し遂げたとしても、本を書いたとしても、本人が死んでしまったのなら、人の記憶に残る存在になんの意味があるのでしょうか。
生きている犬は死んだ獅子に勝るとあるように、生きているからこそ意味があり、価値があるのです。
永遠に残ること
僕が最近感じていることは、残りの人生を出来る限り自分を犠牲にして主に使えたいということです。言うは易く行うは難しなのはわかっていますが、これ以上、自分のためにこの地上での時間を使っても意味がないと感じているのです。
もちろん、生きるためには仕事もしないといけないし、家事や育児も必要です。ただ、時間的な量だけでなく、質的にも主にお仕えするレベルを何段階か上げたいと思っています。
これまでの人生
これまで、僕はどれほど必死で主にいのってきたでしょうか。どれほど、周りの人に重荷を負って祈ってきたでしょうか。どれほど本気で礼拝に向き合ってきたでしょうか。どれほどの熱量をもって自分が置かれている地域のリバイバルのために祈ってきたでしょうか。
もし、キリストの御足に従うと決めたなら、イエス様が生きたように生きなければなりません。それは犠牲の生き方であり、与える生き方です。僕にはそれはできないですが、限界がありますが、主が僕の心にお住まいになられる時に、主にあって出来ると信じます。
今年は量的にも質的にも主に犠牲を捧げる一年にしたいです。