0402_神に対する自己弁護や言い訳、解釈を一つひとつ引き剥がす作業

決して変わらないもの

GWは特に予定を入れておらず、ルーティンをやりつつ、あとは祈ることに集中しています。以前牧師先生がこんな事を言っていました。「もし以前、主から与えられた使命や情熱があったにもかかわらず、今その使命に燃えていないなら、悪魔がそれを取り去ったのだから、再び使命と情熱を燃やしていただくように祈り求めないといけない。」

確かに聖書にはこのように記載されています。

「神の賜物と召しとは、変えられることがない。」
ローマ11-29

ともすると、今の状況だけを見て、様々な解釈をして、与えられた賜物と召しを捨てる選択をしているかもしれないと思いました。例えば、「あの頃は救われて間もなかったから」とか「あの頃は若かったから」とか「あの頃と今は状況が違う」などと言って使命を忘れてしまうのです。

主を求めなくなった

以前は主に祈る時間が何よりも好きだったにもかかわらず、今は熱くも冷たくもないような温度でしか祈れていません。ここでも、様々な解釈をして、主との時間をないがしろにしています。例えば、「目の前に仕事に熱心に取り組まないといけない」とか「こういったコンテンツ(娯楽)も仕事で役立つから」とか「こういった知識もいつか伝道に役立つから」などと納得させようとします。

もしかしたら、事実かもしれませんし、偽りの理由もあるかもしれません。いずれにしても、確実なことは、すべて主の手に握られている時に主の役に立ち、祝福されるということです。聖書にはこのように書かれています。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。
ヨハネ 15:5

主に近づくために

最近の祈りはこういった神に対する自己弁護や言い訳、解釈を一つひとつ引き剥がす作業のよういなっています。それは、今一度、もう一度、主に自分自身を捧げるためだと思います。以前は喜んで捧げていたのに、これは自分のものだからと保留しているものが多くあるのです。

祈る中で、少しづつ明確になってきたことは、主にすべてを真実に捧げることは、何かを失って悲しむことではなく、主の恵みに与るためだとわかってきました。日々生きる中で、食べることも、飲むことも、仕事も、家事も、娯楽も、すべて、主が共におられるなら、すべての次元が変わるんだろうと思っています。それは、何か特別な祝福を求めているわけではなくて、ただ、何をしているときも本当に主が共にいてくださることがこんなにも幸せなことなんだと知ることだと思います。

そうすればきっと、以前頂いた賜物と召しを新たにしていただき、新しい命で生きれると思っています!

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。
ローマ4:8

おっさん
■賜物と召しは変わることがない
■自分のものとして保留しているものも祈りの中で引き剥がしていく
■そうすれば、真実に主が共にいてくださる次元の違う喜びがあふれるだろう

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