1164_奉仕したあとに自分の魂が恵まれることを求めている

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奉仕したあと

皆さんは奉仕をしたあといつもどのような気持ちになるでしょうか?奉仕した自分自身の魂が恵まれて「あーやってよかった!」と思える日もあれば、失敗や人から言われた言葉にしょんぼりしてしまうこともあるかもしれません。

もしかしたら、自分なりに時間を天引きしてしっかり準備をして祈って備えたからといって、奉仕のあとに毎回自分の魂に感覚的にわかる状態で恵まれるとは限らないという場合もあるかもしれません。

フィードバックがないから心配になる

僕にとって特にCSなどにおける御言の奉仕はそういう場合が多いです。あの表現は正しかったのか?わかりにくかったのではないか?長すぎたのではないか?そもそも、神様がみんなに語りたいことを僕は通りよき管として語ることができたのか?となんとも言えない気持ちになることが少なくありません。

自分としては準備して祈って備えたと思っていても、それがどうだったかはわからないのです。毎回アンケートをして今日聞いた御言でよかったところ、悪かったところ、心に響いたところ、逆にいらなかったところなどフィードバックをもらえたら、PDCAサイクルを回して説教の内容を改善できますが、そういうわけにもいきません。

聖霊によらなければ

同じ年代であったとしても性格は全員違い、おかれている状況も違います。平穏な気持ちで毎日過ごしている人もいるでしょうし、僕みたいに人格が底辺で毎日ぎりぎりで生きている人もいます。だから、そもそも、僕の語る内容や表現などで全員にささる御言を語ることなどはまず不可能です。

そういった点において、聖霊によらなければ誰もイエスを主と告白できないというところまでゆだねきるところが僕にはできていなかったのではないか?と反省しました。

主権は誰にあるのか?

僕にとって御言を語ることは怖いことでもあり、喜びでもあります。御言が語れる機会を与えられていることに感謝していますし、それを準備する過程も大好きです。それは祈りによって神様により一層近づくことができるからです。しかし、もしかしたら、僕は自分自身が立つべきところに立って語ってはいなかったのではないかと思いました。

確かに自分自身が主の前に出て聖別されること、またへりくだることを求めています。また神様が直接みんなに語りかけてくださって御言によって命が与えられて、励まされて、道が開かれることも切に望んでいます。

しかし、僕はそれ以上に、奉仕したあとに自分が恵まれることを求めていたのかもしれません。それは決して悪いことではないと思いますが、その主権は主にあるので、僕がそれに執着する必要なないと思いました。

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