0451_牧師先生という最高のロールモデル

フルタイムの献身者

今日、牧師先生と複数人の信徒の方で雑談をしていました。その中で古株の信徒の方が「牧師先生の働きは大変だし、簡単なことではないし、本当にすごい」というようなことを言っていました。僕も同じように思います。牧師先生は率先してキリストの生き方の模範を信徒に示してくださる方たちです。

これまで、牧師先生を見るとキリストを見ているような感じになる先生に多く会ってきました。「普通の人間ならこう反応するだろう」というところで、そういった反応がなくて、まさに神対応、そこにキリストの謙遜や自分を捨てる献身を垣間見るのです。

牧師先生というロールモデル

先生1人ひとりの性格や働きは違いますし、個性も様々です。しかし先生たちの中にある聖霊は同じであり、やはり同じ性質(キリスト)を先生に見るのです。僕には、こんな先生のようになりたいというロールモデルが5名ほどいます。

宣教師の墓場と言われているような、現状なお見えるところは不毛に思えるような日本であったとしても、このような器に出会わせてくださっていることは感謝だと思いました。

召しに対して

話は戻りますが、先程の古株の信徒の発言に対して、牧師先生は「正直、呼ばれただけなんですよ。」とだけおっしゃっていました。神様が牧師として召してくださったから、それについていっただけだというのです。僕自身はその言葉が本心から出ていて、すごく感銘を受けてしまいました。

もしかしたら、ある人たちにとったら、神様に呼ばれてついていくのは大変なことなのかもしれません。そのある人というのは僕自身でもあります。というのも、仮に僕がフルタイムの献身者として、神様に召されたとしたら、自分が大切にしているものを本当の意味で捨てなくてはいけなくなるので、必ず迷いが生じると思ったからです。

神様中心

僕が同じような状況になったとするならば、おそらく、おろかな虚栄心が芽生えて、二者択一の中で、それでも僕が神様を選んだことを強調するために、「自分の大切なものを捨てた感」を出して話をしているように思います。

しかし、今日の牧師先生は、従った自分ではなくて呼ばれたお方、つまり神様に焦点を当てているところに本物を見た気がしました。最近個人的に強く教えられていることは、自分を捨てるということです。「自分が自分が」ではなくて「神様が」が焦点なのです。今日も悔い改めます。

おっさん
■自分ではなく神様
■従った自分ではなく、呼ばれたお方

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