クリスチャンの生き方
クリスチャンの生き方とは誤解を恐れずに言えば、自己を否定する生き方だと思います。人間は誰でも、おおよそ自分が思っている以上に自分のことを大切に思っています。その大切な自分を否定することは、本能的に嫌なことであり、拒否反応を起こしたくなるものだと思います。悪く言えば、自己中心的、よく言ってもそれが自我であり、おうおうにして、神様の前では邪魔になることが多いのです。
キリストの生き方
なぜ自分自身を否定しないといけないかというと、イエス様ご自身が自分の思いではなく天の父の御心を求めた生き方をされたからです。さらにイエス様ご自身が、人に仕えられるためではなく、仕えるためにこの地上にきてくださったからです。イエス様に従っていくと決めたクリスチャンはイエス様のようになることを切に望みつつも、全くそのようになっていない自分自身を見て、そのギャップに苦しむのです。
しかし、ギャップに苦しんで終わりではなくて、新しい道を開いてくださったのもイエス様です。それは、この世では味わえない隠された喜びかもしれません。自己否定という一見馬鹿らしく見えるその先に、言語では表現できないキリストにある静かな喜びが心に満ち溢れるのです。
自己否定の具体例
自己否定は、痛いです。辛いです。馬鹿らしいです。実際にバカを見るかもしれません。それは什一献金も含まれるかもしれません。教会で奉仕をしている時間もあるかもしれません。せっかくの休日を教会や伝道の働きで丸一日がなくなってしまうかもしれません。本来そのお金や時間を自分のために使うことだってできたはずです。会社の同僚などはその時間で勉強や自己研鑽をして、実力をどんどん伸ばしていくかもしれないという焦りもあるかもしれません。
しかし、その先にある喜びを一度でも知ってしまったら、何にも変えられないことだと明確にわかるようになります。それはこの聖書の言葉に凝縮されています。
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
マタイ6:33
身近な自己否定
個人的に最近学んでいることは、この自己否定は、「イエス様に仕えるように周りの人に仕えようとする」時に要求されるように思います。僕はイエス様には大声で賛美を捧げられる。でも、あの人には仕えたくない。という幼稚なクリスチャンだからこそ、徹底的に自己否定をして、聖霊が住んでくださる何にも変えられない最高の喜びを心に味わいたいと願っています。
■しかし、自己が砕かれたしたあかつきには聖霊の静かな喜びが心に満たされるだろう