0449_人生という巨大迷路を俯瞰して見る必要はない

祈り

祈る前と祈った後では、自分自身が全く変わったような気持ちにさえなります。それはからっからに干からびた大地に泉が湧き出るような気持ちでもあり、大嵐の海原でたった1人で舵を握っているような状態から安んじで船内で安眠できるような気持ちでもあります。

いずれにせよ、たった1人で取り組んでいた、立ち向かっていた、どうしようもない、八方塞がり、四面楚歌状態にあっても、祈る時に「1人ではない」という安心感が与えられるからだと思います。

祈りの中で起こること

祈る前は大量の積み木が目の前に無造作に散乱しているような状態であっても、祈ると、不思議とその一つ一つが整理され、組み立てられ、「大丈夫だ!」と思えたりするのです。それは主のわざであり、主ご自身が僕自身の中に介入してくださり助けてくださっているのです。

日常生活は自分の思うようにいかないことが多くあります。想定していても、予定していても、進んでみると、カオスな状態であることがあります。日常は非常に具体的でミクロの世界です。だから、時に、巨大迷路の中に迷い込んでしまったような気持ちにもなってしまいます。

信頼できるお方がいることを知ること

しかし、祈る時に、その巨大迷路を俯瞰して見てくださっている方がいて、導いてくださっている方がいると知ることができます。時に僕たちはその巨大迷路の全貌を自分自身の目で見たくなるかもしれません。

自分がこれからどこにいくのか?どのように導かれるのか?を知りたいからです。でも、聖書を見ると主の方法は、主ご自身だけが知っておられるので、主に信頼することを求めておられるように思います。アブラハムがウルの地を出た時、彼はどこに導かれるのかも知らずに主に信頼して一歩踏み出したからです。

おまかせする時

しかし、実際は自分自身でその全貌を知るよりも、天の父なるお方がしってくださっている。この方が導いてくださるから安全安心と思えるほうがいくぶんもいいと思います。なぜなら、人間はまだ起きていないことに対して思い煩ってしまうからです。僕は思い煩いやすい人間なので、先のことが心配になったりします。しかし、その心配の大部分、おそらく99.999%くらいは杞憂で終わっているのです。

だから、巨大迷路を俯瞰してその行く末の全貌を知る必要はありません。ただただ、祈って主が導いてくださるという信頼、安心感が得られればそれでいいと思うのです。

おっさん
■人は往々にして、その全貌を知りたがる
■しかし、最も重要なことは全貌を知っているお方を知ること

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