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祈りについて
クリスチャンの会話の中で「祈っているね」という言葉は頻出します。自分がこの言葉を発する度に、自分を顧みて果たしてどの程度その人のために祈っているかかなり疑問に感じたことがありました。その人とあった時に「あ、祈っていなかった!」と思い出し、1人申し訳なく、情けない気持ちのなったことは数知れません。
確かに祈ってはいるけれど、ついで程度の祈りに埋もれてしまっていることもあります。自分のことや家族のことについては熱心に祈るのに、周りの人のために祈る時にそこまでの必死さがあるのかと問われると情けなくなります。
なぜ祈らないのか
こういった自己中心的なとりなしになってしまっている原因に、いくつか理由があることがわかっています。1つ目が聖霊に満たされていないということです。イエス様は僕の周りにいる人が救われてほしくて、命を捨てるほどにも愛してくださっているのに、僕にはそこまでの熱量はなく、無関心に近い状態になっているのです。
2つ目に祈りのリストを自分がもっていないということです。自分に重荷がある人、自分しか祈る人がいないと思われる人をきちんと頭の中でリスト化して、日々の祈りに加えるということができていないのです。
どう祈るか
1つ目の課題に関しては、僕には愛がないということを悔い改めてイエス様と同じ愛で周りの人を愛せるように聖霊を切実に本気で求め続けなければなりません。2つ目は割と簡単で、営業の見込み顧客リストのような形式で頭に人の名前を入れています。
例えば、いくつかのカテゴリーがあります。クリスチャン、求道中の方、クリスチャンだけれども教会に来れてない方、職場の方、取引先の方、友人の方、家族などです。それぞれのカテゴリーに僕が神様の与えられた人の名前を入れて、日々の祈りの中で祈っています。
祈るとどうなるか
これらの人々は神様から僕に任せられた人々です。営業でいうと僕の担当顧客のような存在なので、責任をもって祈っています。祈っていると、「そろそろ連絡してみよう」とか「電話してみよう」という気持ちが起こってきて、実際にアクションが起こせます。
これがもし、自分の担当顧客、神様から与えられた人々という認識がなければ、日常の生活の忙しさに流されてしまい、祈ることも、実際的なアクションをとることもできなかったと思います。大前提は人と神様との個人的な関係ということは欠かせないですが、それと同じように誰でも人は人と人との関わりの中で生きているので、人とのつながりも大切にしていきたいです。