0090_分断によってもたらされた外に対する強烈な関心

コロナで分断されてから、これまでより多くの人とZOOMやLINEやWechatなどを使ってビデオ通話をするようになりました。

仕事においては、これまでそれぞれが出張やフレックスタイムのために週1回に限られていた会議が、現在では1日2回開催されるようになりました。意外なことに、これまでよりも密にコミュニケーションして、情報共有ができています。

友人知人もこれまでは「いつでも会える」という認識だったので、特に能動的に食事に誘うといったこともあまりなかったのですが、それが、「決していつでも会えるわけではない」という認識に変わったとたん、これまで以上に、複数人でビデオ通話でおしゃべりをするようになりました。

中国の知人も、これまではWechatでたまにテキストチャットするくらいだったのですが、今では週に1回複数人が同時につながって交流をしています。

巣ごもりゆえに時間的な余裕が与えられたのと強い外に対する関心がこのようなことを招いたのだと思います。

僕は京都出身ですが、金閣寺と清水寺に行ったのは、外国から来た友人を案内した時が初めてです。府外から京都観光に来られる方はなんとしても外せない観光地ですが、京都人からすると「いつでも自転車で行ける」ので、あえて、時間をとって行こうとも思いません。これがもし、来週から金閣寺を閉鎖しますとなったら、京都の人も金閣寺に殺到するんじゃないでしょうか。

大阪にある「みさき公園」が、惜しまれつつも今年の3月で閉園しましたが、閉園すると宣言があってから、老若男女問わず、多くの方が「みさき公園」に押しかけたそうです。

青い鳥症候群と言われるものがありますが、「身近にありすぎるからこそ、そのありがたみに気づかない。」ということが往々にしてありそうです。

青い鳥症候群(あおいとりしょうこうぐん)は、モーリス・メーテルリンク作の童話「青い鳥」(仏: L’Oiseau bleu)の中で「主人公のチルチルとミチルが幸せの象徴である青い鳥を探しに行くが、意外と幸せの青い鳥は身近にあることに気付かされる」ことから、「今よりもっといい人が現れる」「今よりもっといい仕事が見つかる」など現実を直視せず根拠の無い「青い鳥」を探し続ける人たちを指す通俗的な呼称である。

引用元:ja.wikipedia.org

昔はイエス・キリストは身近な存在ではありませんでしたが、キリストに出会ってからは身近な存在になりました。そして、身近な存在すぎるがゆえに、次第に「恵み慣れ」してしまって、本当は「守られている日々の生活」であるのに、「守られている」を忘れて、「日々の生活」だけになってしまうことがあります。

このような状況だからこそ、まさか、こんな汚れた人間がキリストの十字架によって、聖い神と交われるようになったことに感謝します。

わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって、さまざまの情欲と快楽との奴隷になり、悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互に憎み合っていた。ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。
テトス3:3-5(口語訳)