1638_天のお父様が喜んでくださっていると思うこと

主が喜んでくださる祈り

主が喜んでくださる祈りとはどのようなものでしょうか?聖書にいくつかヒントが書かれています。たとえば、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」とは主が望んでおられ喜ばれる祈りだと思います。

肉は「そんなのできるわけないわ」と御言を切り捨てようとしますが、霊(信仰)は「キリストにあってできる」と信じます。僕は愚か者なのでつい自分がしたい祈りをしてしまいますが、先日は祈りを主が喜んでくださっていると嬉しくなることがありました。

感謝の心

それは、大勢のクリスチャンにとって当たり前の祈りかもしれませんが、このような祈りです。

「あなたの恵みは私に対して十分です。あなたの恵みと祝福は今日も溢れています。ただイエス様の十字架に感謝します。」

天のお父様は最も良いものを備えてくださっています。それは福音書に出てくる放蕩息子の話からも明らかです。もし、僕が生きる中でたとえぶつぶつ言ったり、不平不満おw言ったり、あの人はと言ったりしていなくても、もし、感謝をしないなら、それはずっと家にいたお兄さんと同じだと思いました。

親はこどもに最善のものを用意して最善の中で生きてほしいと願い、実際にそうするものです。もし、こどもがその中にあっても不平不満で生きるなら、親の心は悲しくなります。僕は時にそういったことで天のお父様を悲しませることがあったと思いました。

あなたの心を教えてほしい

次に、このような祈りをすることで天のお父様が喜んでくださっていると思うことがありました。

「あなたの祝福や守りや導きよりも大切ですが、ただあなたの心を教えてほしいと思っています。どうかあなたと心を一つにできるようにしてください。」

僕は愚か者なので、つい、主ご自身よりもそれに付随する副産物を求めてしまう者です。たとえば、恵み、祝福、守り、導きなどです。しかし、かりにもしそれらなくなったら主を求めなくなるのでしょうか。それは、ご利益宗教に限りになく近づいてしまいます。

主ご自身を求める

何度も書きますが、僕はつい自分のメリットとなるそういった副産物を求めてしまう愚かなものです。祝福、恵み、喜び、楽しみ、守り、導き、賜物など。もちろん、それらを求めることも大切です。しかし、それよりもいつも信仰の導き手であり、その完成者である主ご自身を求め、主の心と共に歩む者になりたいです。

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