もし生きていたら
今日で第二子が生まれて一か月が経ちました。ふとした時に、もし生きていたらと思うこともあります。しかし、そうすると主への感謝が薄れそうな気がしてそのように考えることはほとんどしてきませんでした。ただ「主のなさることはすべてその時にかなって美しい」と主を賛美して気持ちを切り変えるようにしています。
彼の地上で生きた記録は戸籍上、1日しかありません。しかし、彼がおなかの中にいる時からずっと語ってくれていました。
祈りに生きる
それは、「祈りに生きる」ということです。僕が親として彼に何かを教えるというよりも、彼は命を通して僕に祈ることを教えて天に帰っていきました。もし、僕が祈りに生きるということができていたなら、彼の命はこんなにも早く取り去られることがなかったのではないか?と思うこともあります。
僕にできることは一つです。それは、彼が教えてくれたことを無駄にしないということです。彼が僕に教えてくれたことが、これから多くの人の救いや祝福や恵みに繋がっていくのだと確信しています。
明け渡すこと
時々、夜寝れなくて恐ろしい夢を見てこわくなることがあります。39歳のおっさんがです。そういう時、自分には本当に主が必要だと思わされます。僕は主に頼らざるを得ない弱い者だと思わされます。なぜ、人を恐れて主を恐れないのか?と問われることもあります。
祈りに生きるというのは、一言で言えば、明け渡すことです。言葉を選ばずに書けば、すっぽんぽんになることです。それははずかしいことです。それはこわいことです。本能的に肉が激しく抵抗するものです。しかし、それなくして、祈りに生きることはできません。なぜなら、そうでなければ、肉は祈る必要がないと判断するからです。そうすると主との関係もなくなってしまいます。
祈りに生きるとはあり方
祈りに生きるとは何を祈るかではありません。また、どう祈るかでもありません。祈りに生きるとはあり方です。天に帰ったこどもがいつも僕にこのように問いかけているように思います。
「おとうちゃん、今日もイエス様と深い交わりをしたかい?イエス様は愛と恵みとまことに満ちたお方、天国で一緒に主に感謝して賛美しよう!」