1208_クリスチャンなのに何も変わらない人の特徴

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信仰生活を送ってきて気づいたこと

信仰生活を送ってきて気づいたことに下記のようなことがあります。それは、

  • キリストにあって変わりたいという願望がなければ何も変わらない
  • キリストにあって自覚させられない限り、変わりたいという願望すらおこらないこともある

これはクリスチャンにとっておそろしいことでもあります。僕は宗教的なクリスチャン生活を送っていた時期があり、今もなお宗教的な生活に堕落する可能性はあるとして、たとえ、教会生活を正しく送っていたとしても何も変わらない場合があるということです。

何も変わらなかった

これは僕の個人的な経験にも一致しています。たとえ、毎週教会に行って礼拝を捧げ、奉仕をし、什一献金をし、さらには毎日聖書を読む習慣があっても、下記2点がなければ何も変わらなかったということがあります。

  • キリストにあって変わりたいという願望がなければ何も変わらない
  • キリストにあって自覚させられない限り、変わりたいという願望すらおこらないこともある

旧約聖書や新約聖書に出てくる人物を見ても、自発的に神様を求めてきているひとたちだけが主に触れられて変えられる体験をしています。主によって癒され、回復し、解放されているのです。それ以外の人は、いわば、群衆なのです。群衆は十字架の道を通る時になってイエス様から離れていった人たちです。

自分は救われているから

こういった変えられたいという願望をもっている人たちは幸いな人たちです。しかし、神様から見たら変えられないといけないのに、自身は変えられる必要がないと思っている人もいます。僕が長い間そのような状態にありました。「自分は救われているからある程度ましになった。あとは微差レベルでましになっていければいい。」くらいに思っていたのです。

なぜこういった状態に陥るかというと、2つあるように思います。一つは、聖書の基準を自分の信仰生活に適用させようとしていない。もう一つは祈りの中で神様の聖さにあずかっていないということです。

自覚を起こさせるだけではなく

前者は聖書の基準と自身の生活の差分を見て自分には足りないという自覚を起こさせます。後者も神様の圧倒的な聖さを比べると自分は救われたのちもなんて汚い人間なんだということを自覚させます。

そして、イエス様のすばらしいところは、人間に足りないところを自覚させて苦しんで終わりじゃなくて、イエス様ご自身が率先して僕たちを造り変える働きをしてくださるということです。

さらにそれだけじゃなく、造り変えたあとも勝利し続ける力を日々与えてくださいます。

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