祈りの時間はタブー?
昨日は1日に1時間祈ることを習慣にするということを書きました。こういうことを書くと、もしかしたらある人は、こう言うかもしれません。「主との交わりはそもそも自発的にするものなので1時間とか強制的にやろうとすると律法主義になる。」
確かに祈りとは主との交わりであり、主との愛との関係の最高潮の営みであると思っています。だから、主との愛の関係が強固な人は1時間という時間で自分を律しなくても自然と1日に1時間でも2時間でも祈ることができるでしょう。
弱さを知っている
その一方で僕は自分の弱さを知っています。僕は祈りよりも自分のやりたいことを優先したいと思う心があることを知っています。祈りは無駄だし、他のことをしたほうがいいという声が聞こえることも知っています。祈りよりも他のYoutube動画や本を見るほうが面白いと思う心もあります。
だからこそ1時間という時間を自分に与えて祈るということにチャレンジしたいと思っています。
勝ち取る
僕が考える主との愛の関係とは勝ち取る必要があるということです。主との愛の関係とは、人が恋人を慕うように自然に愛するようになるものではありません。なぜなら、人が恋人を慕うのは結局は心の働きであったり肉欲であったりするからです。
もし心や肉欲によって主を慕い求めることができるのであれば、この世界にはもっとクリスチャンであふれていると思います。しかし実際は自分を捨てて霊の領域において主を知る人だけが主との愛の関係を結んでいるのです。
霊的な領域でのこと
何度も書きますが、主との愛の関係とは心よりも肉欲の領域よりもはるかに高い霊的な領域のことです。だからこそ、この霊的な領域での愛の関係を保つためには肉欲に勝利する必要があると思っています。
今は1日に最低1時間祈るということを習慣にして肉欲に打ち勝つことを目指してますが、フェーズが変わればもっと祈らざるを得なくなるほど主を慕わしくなると思っています。
祈りが開かれると
自分の中にある課題、家族の課題、教会の課題、コミュニティーの課題、世界の課題、すべて祈りから始まって道が開かれていくと信じています。なぜなら自分の中にある課題が祈りによって開かれたことを知っているからです。
自分の中のことにとどまらず祈りの力を信じていきます。