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過去の祈りのスタイル
僕が若かった頃は祈りといえば「主よ~!」と大きな声で祈り求めるスタイルが当たり前でした。それは僕がペンテコステ派のバックグラウンドをもっており、そのような環境にいたのでそれが当たり前だと思っていたからです。本当に心の底から主に飢え乾いて叫んでいた時もあれば、惰性で祈ってしまっていることもありました。
そのことに気づいてから祈りが少しずつ変えられていったように思います。一つ目の変化点は21歳の時に北京に留学して福音派の教会に行ったことです。
今の祈りのスタイル
二つ目の変化点は教会の夜の集会で説教の機会が与えられてからです。多くの失敗をしながらも最終的に神様が語ってくださったこと以外は語らないぞと決めてから、静かに主の声を待ち望むようになりました。当時行っていた教会には裏山があるのですが、一人で山のほうに祈っていました。語ってくださるまで待つということは恐ろしいことでもありました。なぜなら、語り掛けなしでは説教が一向にできないからです。
しかし、3時間も4時間も一人で祈る中で主は毎回必ず語ってくださり、メッセージを与えてくださっていました。その時に僕は大声で「主よ~!」と叫ぶ祈りはしていません。ただ静かに主を待ち望むことだけをしていました。そういった中で、自分の口から主をほめたたえる賛美や御言が出てくるのは至福の時だったと思います。
静かに祈ること
今は導きによって福音派の教会に行っているのですが、祈るスタイルは変わりましたが祈りの姿勢は変わっていません。大切なことは多くはないということを日々学ばせてもらっています。特にこういった聖書の言葉は僕の目を開き大いに励ましました。
「あなたがたは立ち返って、
落ち着いているならば救われ、
穏やかにして信頼しているならば力を得る」。
イザヤ30:15
主はおのれを待ち望む者と、
おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。
主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。
哀歌3:25-26
もちろん、大きな声でシャウトするシーズンもあるかもしれません。しかし、聖書は落ち着いていることや信頼していること穏やかであること、静かに待ち望むことも書かれています。
信頼しているなら
確かに神様が必ずなしてくださると信じて疑わないならわざわざ大きい声で言わなくてもいいのだとも思いました。なぜなら、信頼しているからです。そもそも、本当に切実な気持ちで祈るなら、声は自然と大きくもなり小さくもなるものだから、スタイルは関係ないと思いました。