0096_レスポンシブデザインの信仰者

レスポンシブデザインは、今では当然の技術ですが、数十年前までは、Web開発にはその概念がありませんでした。10年ほど前のWebサイト構築といえば、PC向けがメインで、ガラケー向けには、別途ガラケーサイズに最適化されたサイトを構築し、ユーザーの端末画面幅を見て、渡すページを切り分けるというようなことをしていました。

しかし、PCの機能と遜色のないスマホがガラケーに取って代わり、iPadなどPCでもスマホでもない中間サイズのタブレット端末が普及するにあたって、端末サイズごとにWebサイトを構築して、切り分けて表示するということが困難になってきました。従来の方法だと、スマホサイズ用、タブレット端末用、PC用の最低でも3種類のWebサイトを構築しなければなりません。お客様の予算を大幅に超過してまう可能性があります。

もし、このような状況にもかかわらず、相変わらず、PC向けのWebサイトを一つだけ作ってしまった場合、スマホではテキストがやたらと小さかったり、ボタンが小さくて押せなかったり非常に使い勝手が悪くなります。タブレットで見たときには、レイアウトが崩れたり、文字がかくれてしまったりと様々な障害があります。

そこで、ユーザーの画面幅に応じて、Webサイト自体が各端末サイズに最適化された表示ができるようにしたものが、レスポンシブデザインです。開発者からするとサイト構築するサイトは1つだけで済みます。作ってしまえば、Webサイト自身がユーザーの画面幅に最適化されたレイアウトに動いて合わしてくれますので、開発者にもお客様にも優しい技術です。

レスポンシブは日常生活や自然界のあらゆるところにあります。例えば、水を容器に注ぐと水は容器の形に合わせて満たされます。ひまわりは太陽の位置に合わせて、自ら太陽の方向を向きます。カメレオンは背景色に合わせて自身の色を自分で変えてしまいます。

聖書に出てくるパウロもレスポンシブの実践者でした。

わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。
コリントⅠ9:19-23(口語訳)

パウロは「すべての人に対しては、すべての人のようになった。」と言っています。それは、なんとかして、幾人かを救うためだと言っています。

これまで、些細な違いで人を受け入れられなかったことがどれだけあるでしょう。自分とは違うと線を引いたことがどれだけあるでしょう。どこに行っても、誰と話をしても、「俺はこれだ」とか「俺が信じているのはこれだ」とカッチコチの概念を押し付けるのではなくて、相手の立場に立って、理解してから理解される原則に立って、キリストの愛に根ざして、レスポンシブな対応ができるように祈ります。