1567_「青年の信仰」は「幼子の信仰」へと回帰する

「青年の信仰」で終わらない

連日、信仰の成長について書きました。僕が書いたのはクリスチャンホームの場合の信仰です。彼ら彼女らの場合は「幼子の信仰」から「青年の信仰」へと成長していきます。その中で大切なのはイエス様との個人的な関係と自由意志だと書きました。

しかし、信仰は「青年の信仰」で終わるわけではありません。じゃあそこから「壮年の信仰」、「中年の信仰」、「高年の信仰」へと成長していくのでしょうか。僕はそうじゃないと思っています。いわゆる、大人の信仰というのは、大人としての対応や社会的側面が信仰と結合しているように勘違いしているだけと思うからです。

アバ父よ

むしろ、僕はイエス様のこの言葉のとおりになるべきだと思っています。

マルコによる福音書 10:14
それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。

つまり、理性が成熟し、自我が芽生えていく中であっても、最終的には再び「幼子の信仰」へと回帰していくのです。なぜなら、これこそ信仰の本質だからです。天の父、イエス様、聖霊との個人的な関係こそが、僕たちを「アバ父よ」と呼ばせるのです。

それはどれだけ理性的な人であっても理屈っぽい人であっても合理的な人であっても関係ありません。ただ聖霊に満たされる時に人は「幼子の信仰」になるのです。

「幼子の信仰」を一回体験

じゃあ、クリスチャンホームじゃなくて大人になってから救われた人はどのように成長するのでしょうか。その場合は「青年の信仰」から入り、「幼子の信仰」へと成長します。僕はクリスチャンホームと大人になってから信仰に入った人との間で何の差もないと思っています。

むしろ、大人になってから信仰に入った人のほうが本気であり、腹が座っており、一世代目の甘えのない信仰があるので羨ましく思うことがあります。

その中で、もし、クリスチャンホームのいいところをあげるならば、やはりこの成長のプロセスを経ることができということです。ようは純真無垢な時代に「幼子の信仰」を一回体験しているので、そこに回帰しやすくなるのではないか?というのが僕の持論です。

「幼子の信仰」→「青年の信仰」→「幼子の信仰」

詩編がいい

では、「幼子の信仰」に回帰しているかどうかのチェックはどうすればいいでしょうか。僕は詩編がいいと思っています。ダビデが書いた詩篇に心と霊を合わせて告白でき人こそが「幼子の信仰」を持っている人だと思います。

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