思ったことを言わない
最近、訓練されていると感じることは「思ったことを言わない」ということです。思ったことを言うことは別に悪いことではありません。思ったことが建設的な場合は人に共有することで、学び、気づきなどの価値を提供したり、共に喜び楽しむなどの効能があります。
しかし、人間は何の益ももたらさない、むしろ、人を不快にさせることを思ったりしてしまうものです。これはSNSを見たらわかります。いくら共感してほしいとはいえ、過度に人の感情を煽ったり、刺激したり、不快を感じさせることを書いたりするのはどうかと思ってしまいます。
話せば汚くなる
しかし、そうは言っている僕自身も同じように誰かを不快にしてしまうことを書いたり言ったりしてしまっているのだと思います。特に僕が気をつけないと思っているのが身内に対して「思っていることを話してしまう」ということです。
これまで僕はどれほどの誰かに対する不平や不満や、もしくは誰かが不利になるようなことを身内に話してきただろうと思いました。それを自分のうちにとどめておけばいいのに、もしくは、それをイエス様のところにもっていって悔い改めればいいのに、誰かに話して自分がすっきりするどころかますます心が汚くなり、周りも不快にさせてしまったということが少なくなかったように思うのです。
身内は比較的なんでも話しやすい
身内は比較的なんでも話しやすいです。だからこそ気をつけなくてはいけません。たとえ、それが誰かに対する批判や不満などではなかったとしても、その人を不利にしたり、変な印象を与えるようなことは話すべきでないと思います。
僕は「これを話したいな」と思ってしまうことがあります。衝動的に話したくなることもあります。またこれを話すことで自分を弁護してくれるんじゃないかという誘惑にもかられることがあります。
話して徳になるのか
しかし、自戒を込めて描きますが、なんでも思ったことを話すのは聖書が要求する生き方に全く一致していません。何の益にもならないこと、誰かに対する不確かな情報や噂話は避けないといけません。むしろ、人の益になること、徳になることを語りなさいと聖書には書かれています。
悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。
エペソ人への手紙 4:29
刺激に対して反応があり、それぞれの間には緩衝地帯があります。刺激に対して、「言いたい!」と思ったとしても、深呼吸してこれを言って果たして誰かの徳になるのか?と自問することを訓練しようと思っています。