御言を守るということ
今日書くことはクリスチャンの中でも意見がきっぱり二つに分かれることだと思います。それはきよめに関してです。ここで僕は「●●してはいけない」という外部からの強制曲でのきよめを書きたいわけではありません。なぜなら、それはいずれ律法主義に陥るからです。僕が書きたいきよめはとは、聖書にあるとおり、主が「心の中に律法を書きつけよう」とおっしゃってくださったことに関してです。
律法というのは、外から「やれ」と言われてできるものではありません。そうではなくて、「主の愛に応えたい」「主を愛したい」「主に喜ばれる生きたかをしたい」「主と共に生きたい」という人間側の神に対する愛の現れとして「守りたい」と思わせるものです。
この世とどう接するか?
ここで一つの疑問が起きます。それは主に救われたのちは積極的に世俗的なコンテンツに触れるべきではない?という問いです。この問いに関してはクリスチャンの中でも意見がきっぱり分かれることでしょう。なぜなら、僕の周りにも二通りのクリスチャンがいるからです。
正直に書けば、僕はこれまでこの両方の生き方をしてきました。救われた当時は世俗的なコンテンツを一切絶ちました。ですので、その期間流行ったドラマや映画や俳優などはほとんど知らずに生きてきました。しかし、この生き方が崩れます。それは冒頭に述べたとおり律法主義に陥ったからです。
やがて律法主義に陥った
当時、僕は生きたキリストと共に歩む信仰というよりは宗教生活をこなすようになっていました。それから、吹っ切れます。それはこのようないかにも合理的だと思える理由をつけたのです。「伝道するにしてもこの世の中のことをわかっていないと伝道できないよね」としたのです。
しばらくは楽しかったように思います。しかし、この世の中のコンテンツで楽しんだあとは満足感は一切ありませんでした。肉だと思って噛みついたとしても、内実はただ砂を嚙むような行為だったからです。
二つのものに板挟みになって
それからは二つのものの間に板挟みになって非常に苦しみました。それはまさに昨日書いたサムソンと同じような状況だったかもしれません。神様と共に歩みたい、しかし、この世の中のことも楽しみたい。もちろん、この世が与えるものはしょせん砂でしかないのに、自身の肉を治めることができない。そのような苦悩だったと思います。
二通りのクリスチャンの生き方に関しては明日に続けようと思います。