母教会から離れて
僕は3年ほど前から母教会から離れて、様々な理由により別の教会に行くようになりました。当初別の教会に行く案がでた時は、不安、恐れ、心配、悲しみなどが自分の中にあり、決して喜ばしいことではありませんでした。しかし、2年ほど祈り続ける中で、神様が励ましてくださり、約束を与えてくださいました。そして、御言を与えてくださったとき、心に平安がやってきました。その時、僕は「この地で主の恵みを見る」と確信したのです。
母教会から離れての生活は僕の信仰生活に緊張感をもたらしました。教会の誰もが僕を知らない状態から始まり、もちろん誰にも甘えることができません。クリスチャンホームで育ったクリスチャンは僕も含めて往々にして教会に甘えがちだからです。
緊張感のある信仰生活
そういった緊張感のある信仰生活は僕に良い結果をもたらしました。最大の恵みは平日に主に近づくことが習慣化されたことです。これまでは、平日は軽く聖書を読んで、日曜日の礼拝によって弱った魂を力づけて頂くというようなものでした。つまり、弱っては強められての繰り返しでした。しかも、牧師先生から祈りぬいて語られる霊の糧を食べることに依存していたのです。
しかし、新しい地では、自分で平日に霊の糧を食べていかないとやっていけません。聖書はもちろん読みますが、自分の中で変わったことは主の御座に出るということです。一人部屋に閉じこもって祈ること、ふろの中で主に意識を向けて祈ること、そして、それが強制的にタスクをこなすようにするわけではなくて、主に近づきたいと思うようになったのです。
これまでは教会の礼拝で主のご臨在を求めていました。今は日常の小さなところで主のご臨在を求めます。祈り求める者に主は現れてくださるからです。
タイミングは良かった
特にこの3年間はコロナ禍で多くの教会がYoutubeなどでオンライン配信をするようになっていたことも大きな祝福でした。つまり、平日の好きな時に説教を聞いたり、礼拝をしたりすることができるのです。
もちろん「聞いても行わないと意味がない」、「聞いても従わないと意味がない」という前提はありますが、今行っている教会の説教を含めて、週に4本の説教は定期的に聞けています。
主に喜ばれるための訓練
確かに当時、別の教会に行くことが決まった時は僕にとって喜ばしいことだとは思われませんでした。しかし、主が語りかけ、励まし、御言を与えてくださって、一歩踏み出した時に、僕自身の信仰が次のステージに行ったんだと思いました。
今はまだまだ訓練の時ですが、今の時を生かして主に仕えていきます。