0541_信仰の戦いは易しい?難しい?

信仰の戦い

クリスチャンの皆さんにとって、平日の普段の生活における信仰生活は易しいでしょうか。それとも難しいと感じているでしょうか。もっとも、学校や職場でも信仰が試されることはあると思いますが、信教の自由が法律で認められている日本では、あからさまな迫害というのはあまりないかと思います。

信仰生活は信仰の戦いそのものです。そしてその戦いは血肉によるものではなく霊的な戦いです。具体的には何を選択するかの戦いです。神様の側に立つか、自分の側に立つか、の戦いです。それはアダムとエバが神の言を守るか破るかの選択を迫られたのと本質的に同じです。

信仰の戦いに負ける?

僕自身はその選択に往々にして負けてしまうことを知っています。わかっちゃいるけど、自分の思いを優先してしまうのです。それは、誘惑かもしれません。誰かを赦せない思いかもしれません。誰かに対して放った言葉かもしれません。高慢な態度かもしれません。あるいは、聖書の教えはバカバカしいとさえ思ってしまう心かもしれません。

確かに選択は自分の意志で行うものですが、自分の力に頼って自分の意志で意思決定する場合は失敗します。もし、主の御心がなるように、また周りに主の愛が広がるように、良い実がなる生き方を望むのであれば、主の力によって自分の意志で選択しなければなりません。

戦いは難しくない

しかし、聖書が明確に告げていることは、信仰の戦い、神の側に立つ選択は難しくないということです。

神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。
ヨハネⅠ5:3-5

僕自身は、この御言がすごく嫌いな時がありました。なぜなら、戒めが難しいと思っていたからです。しかし、今ではそれは、自分自身の不信仰が原因であったということがわかります。僕自身は、自分の力で自分の意志で選択して勝利しようとしていたのです。だから、難しいと思い込んでいたのです。

しかし、何をするにも、もし主により頼んで、主を求めて、意思決定するならば、勝利が与えられます。もし、「それは難しいよ」とか「綺麗事だよ」と片付けるのであれば、そこで信仰生活は終わってしまいます。だから、なんとしても、主を求め続けて歩みたいと思っています。

信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。
ヘブル12:2

おっさん
■日々主を求め、しがみついて生きるならば勝利できると信じる

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