0540_主をどれほど知っているのか

主を求める時

自分にとって、今は主を求める時だと思っています。あーしてほしいから、こーしてほしいから、助けが必要だから不安だから恐怖があるから、主を求めるのではなくて、ただ、主の愛に帰りたくて、またもっと主のご栄光を拝したくて、求める時だと思わされています。

聖書も何回も読んで、説教も何度も聞いて、信仰書もたくさん読んで、主と共にそれなりに生きてきて来ました。僕はあほだから、主のことを知っていると思ってしまっているのです。しかし、聖書がゆっているように、「もし何か知っていると思っているなら、知らなければならないほどのことすらまだ知っていない」のです。

主を知っているのか

そもそも、万物を創造されたお方をどうして知り尽くすことができるでしょうか。どうして、この塵に過ぎない人間が神を知ることができるでしょうか。そんな当たり前のようなことも大いなる勘違いで、主のことを知っていると思っているのです。

今のこの地上での100年程度の人生は1点に過ぎなくて、死んだあとに撒かれた種によって永遠の栄光の体に蘇るというのが聖書の教えです。にもかかわらず、今のことはおろか、老後のことを心配して生きているようなので、本当にマインドを変えないといけないと思っています。

目的主導の生き方

先日ニュースでアメリカのサドルバックの教会のリックウォレン牧師が最後の説教をしたとありました。リックウォレン牧師が最後に語った内容は開拓当初に語った内容と同じだったそうです。それは目的主導型の信仰というものです。

クリスチャンは最終的な目的、つまり、天国に入ることやイエス・キリストご自身の姿に変えられるという目的が明確にあります。だからこそそこから逆算して今を生きないといけないということです。しかし、自分自身を見て思うことは、こういった目的、信仰の導き手であり、信仰の完成者であるイエス・キリストを仰ぎながら生活するのは容易ではないということです。

すぐに日常の引力に引かれて、目の前のために生きてしまいそうになるのです。絶えず目的からずれずに生きるためには、イエス様から目をそらさないことです。

こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。
へブル12:1-2

おっさん
■求めるべきお方はイエス様ご自身

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