教会は神の家
教会は本当にいいところだと思っています。もちろん、教会ならではの問題やややこしさ、人間関係のわずらわしさなどがないわけではありません。しかし、それは人間が集まるところなのであって当然だと思います。ただ一つ、驚くべき一般的な人間社会と全く違うところは、そこに主がいてくださるということです。
教会とは神の家のことであり、祈りの宮であり、礼拝の場所です。主が教会を愛してくださり、主がそこにいてくださるというこの1点だけで、そこが何よりも祝福に満ちた恵みに満ちあ愛に満ちた場所になるのです。
教会は霊の目でみるところ
以前も書きましたが、もし肉の目で教会を見るなら間違いなく教会は躓きの場所となります。しかし、信仰の目で見るなら間違いなく祝福の場所となります。
1162_肉の目で教会の人間関係を見るならつまずくだけだが…
一つは祈ってくれる兄弟姉妹、先生がいるということです。そして、それよりも素晴らしいのが、祈れる兄弟姉妹がいるということです。僕自身はもし教会という場所がなかったら、きっと自分の親族や関係の近い人以外のために祈ることなどなかっただろうと思っています。
祈り合える人々
自分は利己的で自己中心的で自分のことばかり考えていて、人のためになど祈れない者です。しかし、主にすべての弱さを認めて祈り求める時に主の心と一つになって主の心で周りの人のために真実な心で切実な思いで祈ることができるのです。
僕はそのような思いで祈ることができている時に感謝が溢れます。なぜなら、これは完全に自分の思いではないからです。こんなにも卑しい、汚い存在であっても主の憐れみと恵みによって心はすすがれて良心の咎めを去り、体はきよい水で洗われることを体験できるからです。そして、聖霊が働かれる時に、こんな者であっても聖なるお方と心を一つにしていただけるのです。
教会という場所があったから
実は今日の日曜日は、霊的な状態がそれほどいいとは言えませんでした。しかし、教会での奉仕があり、朝早く起きて祈って備えました。その時間によって主との深い交わりを持つことができたのです。そして、兄弟姉妹のために祈る心を主が与えてくださいました。
もし、教会に行く必要もなく、奉仕もなかったら、僕は決して朝早く起きて祈ることもなかったし、兄弟姉妹のために祈りたいという思いも与えられなかったでしょう。今行ける教会があって奉仕があって兄弟姉妹や先生がいることに心から主に感謝しました。