やる気はあるが
最近、自分がすごく保守的になっていると感じています。その傾向は日本に帰ってきてから強くなってきています。よく言えば、安定。悪く言えば、普通。なのです。昔から出る杭系だったので、とても物足りないのです。
もちろん、今も何もしていないわけではありません。あらゆる面において、やる気はあるのですが、「その気」になっていないのです。自分が危機的な状況に追い込まれた時に、尻を蹴られるように初めて「その気」になるのではなくて、今、一見安定していると思われる状況の中で「その気」になりたいと思っています。
今年の聖書箇所
というのも、今年聖書を読んでいて、ぐっときた御言が僕にそう訴えていると思ったからです。おそらく今年の個人的な聖書箇所はこれになると思います。
主は言われる、
「今からでも、あなたがたは心をつくし、
断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」。
あなたがたの神、主に帰れ。
主は恵みあり、あわれみあり、
怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、
災を思いかえされるからである。
ヨエル2:12-13
人間が神の御心から離れるのは、往々にして試練の時ではなく、安逸の時です。それは聖書に出てくる人物を見るとよくわかります。ノアは方舟によって救われた後に酒に酔って裸になってしまいました。ダビデは王となり戦線に出なくていい状態になり、王宮でバテシバと罪を犯しました。
突き詰めると
僕に求められているのは、神の御心を知って、心を裂くことだと思います。突き詰めていくと自分さえよければいいという自己中心的な根が自分の中にあるのを知っているからです。自分だけが救われたらそれで終わりなのか?自分だけが神と共に生きる人生で幸いなのか?
聖書は明確にその問いに対してNOと言っています。自分が救われたのは、その救いが自分におられる主を中心としてさらに広がるためであり、自分が恵まれたのは主の恵みが周りに溢れるためです。
マリアが受胎告知を受けた時、彼女は天使に「恵まれた女よ。おめでとう」と言われました。それは彼女だけが恵まれるだけでなく、聖霊によって身ごもったマリアによって生まれるイエス・キリストによってすべての者が恵まれるためでした。
主に立ち返る
正直、今の段階で、今年与えられたこの御言が自分にどういった意味をもってくるかは全くわかりません。ただ、一つだけ言えることは、今の安定に安逸を貪ることが御心ではないということです。
だからこそ、今年は神の心をもっと知りたいと思っています。また主に立ち返れていると思っているだけで、実はまだ中途半端な状態でしか立ち返れていないならば、その気で立ち返りたいとおもいます。