0423_真の悔い改めは容易ではない、もしできるならクリスチャン生活はイージーモード

イスラエルの王二代目

今日の説教はサムエル記Ⅰの16章から語られました。イスラエルの初代王として選ばれたサウロは主に従うことができなかったため、ついには神様から見放されてしまいます。そこで、神様は別の王を立てるためにサムエルをベツレヘムに遣わします。

サムエルはベツレヘムの住民のエッサイと呼ばれる人のところを訪問し、彼の息子のいずれかを王として立てる儀式を行うのです。エッサイには複数の息子がいました。その中には、筋骨隆々の長身のイケメンや物腰の柔らかい知的で誰からも好かれそうな人もいました。一見王にふさわしいと思いきや、主はその人は選んでいないと言うのです。

主の人選基準

結果、兄弟の数にも数えられておらず、エッサイからお呼びすらかからなかった末っ子が選ばれたのです。この一連の流れでこの箇所で聖書はこのように書いています。

しかし主はサムエルに言われた、「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る。サムエルⅠ16:7

主は、筋骨隆々かどうか、長身かどうか、イケメンかどうか、の容姿は見られないというのです。当時の王は、将軍でもあり軍を率いて戦に出るのが常でしたので、逞しく見える容姿というのは非常に重要な要素でした。しかし、主が選ばれる基準は容姿ではなかったのです。

人選基準はどこへ

が、しかし!主がエッサイの末っ子であるダビデを選んだ時、このような記述があります。

そこで人をやって彼をつれてきた。彼は血色のよい、目のきれいな、姿の美しい人であった。
サムエルⅠ16:12

なんと、舌の根も乾かぬうちにイケメンが選ばれてしまっているのです!ここで、牧師先生はこのようにおっしゃっていました。主が心を見るというのは、人間の心の性質、例えば、優しいだとか、思いやりがあるだとか、勇気があるとか、物腰が柔らかいだとか、そういったことではないそうです。

主の人選基準の詳細

主が心を見られるのは、その人と主との関係を見られるというのです。言い換えれば、主を求め続けている人、主にすがり続ける人、悔い改めて立ち返り続ける人、そういった人が主の目にかなう人だそうです。

確かに、ダビデは王として任命されて、多くの勝利を勝ち取り、イスラエルの大繁栄の礎を築きましたが、人妻を奪ったり、殺人を企てて遂行したりする罪も犯しました。主はダビデが少年出会った時に、ダビデがそういった罪を犯すことをご存知でした。しかし、彼は主の御心にかなう者だったのです。

人にとっての難しさ

以前、ある人がダビデすらもそんな罪を犯しているんだから…のような発言をしていました。発言の意図は明確に書きませんが察してもらえるとありがたいです。確かに主は罪を赦してくださるお方です。しかし、厳然な事実として、直面することは、人間は真に悔い改めることができるか?ということだと思います。

神様は愛の方ですから、罪を赦してくださいます。それは事実です。しかし、自分自身を見ても、日頃の心の中で犯す罪深いことですら、自己弁護して、悔い改めようとしない硬い性質が自分の中にあるのを認めざるを得ないのです。

主がダビデを選んだ基準からもわかるように、おそらく、クリスチャンに絶対的に必要な性質は、愚直に素直に罪を主の前に出て悔い改めることだと思います。なぜなら、それが難しいと思うからです。

主は天から人の子らを見おろして、
賢い者、神をたずね求める者が
あるかないかを見られた。
彼らはみな迷い、みなひとしく腐れた。
善を行う者はない、ひとりもない。
すべて悪を行う者は悟りがないのか。
彼らは物食うようにわが民をくらい、
また主を呼ぶことをしない。
詩篇14:2-4

おっさん
■主は主を求める者、悔い改めて主に立ち返り続ける者を求めておられる

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