末っ子根性
僕は三人兄弟の末っ子なので「誰かに何かをやってもらえる環境」で育ってきました。そのため基本的に受動的ですし、何かによく気づくという性質ももっていません。もちろん、その性質のいかんを末っ子に起因するるのもどうかと思いますが、周りを見ていても3人兄弟の末っ子となると割と自由でそういった性質を持っている人が多いということに気が付きました。
さらに教会生活においては、それに輪をかけて末っ子根性を発揮していたように思います。自身が生まれ育った母教会では、自分を知らない人はほぼいないので、ウチソトでいうと、ウチ扱いしていたと思います。それは親しき中にも礼儀ありから逸脱しており、僕の一方的な「なあなあな関係」になっていたように思います。
意識を完全に変えた出来事
しかし、2つの出来事が僕の意識を完全に変えました。それは結婚したことと全く別の教会で信仰生活を送るようになったということです。
前者においては自分中心の軸を子供中心に移動させ、自分中心ではないということが体験的にどのようなことであるかを学びました。そして、その体験によって間接的に神中心とはどのような生き方なのか?というのを学んだのです。これは僕の信仰生活における非常に大きな変化でした。
自己中が死んだ例
その変化を具体例を挙げて説明したいと思います。先日は子供を屋外で開催されるアンパンマンショーに連れて行きました。以前なら末っ子の自己中心を全力発揮してせっかくの休日はゆっくりしていたいとダメ父親を発揮していたと思いますが変わりました。
炎天下で一人2時間場所を取ることさえも喜びと思えたのです。子供が喜んでくれるならそれも大きな喜びと思えるようになったのです。
信仰の独り立ち
また教会を変えたことで自分の信仰の独り立ちが始まりました。それは簡単に言えば、平日主と親密に歩むという生き方です。以前は僕は母教会に甘えてそういった生き方は不要とさえ思っていたのです。
しかし、今ではそういう生き方をしたい、むしろ、せざるを得ないという状況においていただいています。たとえ、平日の朝、時間がないように思える時でも、わずか10分であっても独り主の前に出れるようになっています。その積み重ねが、平日主と歩むクリスチャンの基本姿勢になっています。
主のなさることはすべて時にかなって美しい
ここ数年は自分にとって大きな変化が多くありましたが、本当に主のなさることはすべて時にかなって美しいと思いました。