朝の黄金の時間を主に捧げる
昨日はブログを削除したことを書きました。これは主との個人的な関係において、主に喜ばれないことを書いていたということです。今回の出来事によって僕は戒められました。その中で教えられたこともあったのでそのことを書こうと思います。
ここ数か月、朝型の生活を続けています。その目的はただ一つで、「朝の黄金の時間を主に捧げる」というものでした。それは主の恵みです。平日の朝を主にお捧げすることの恵みは計り知れません。それは、その日一日主と共に歩みたいという強い願いをもつことができるからです。それは主に対する飢え乾きにも似ています。
行いによって生きる
僕は非常に愚か者なので、朝起きて主の前で祈ったり聖書を読んだりするだけで自己満足してしまうことがありました。もっとはっきりかけば、「朝の時間を主に捧げれば1日が祝福されるだろう」とか、いまだにご利益宗教的な考えが抜けきっていなかったのです。つまり、未だに自分だったのです。はたから見ていて、不快感を与えるオレガーオレガ―マンだったのです。
しかし、それはただの宗教生活でした。はっきり書けば行いによって生きる信仰になっていたのです。
どのように始まるのか?
僕が今回ブログで失敗した原因はそこにありました。自分の愚かさをさらけ出して書きます。僕は「朝主の前に出ているから自分の思いは主に近いだろう」と思い込んでいたのです。しかし、本当にそうでしょうか?これはただの行いです。
黄金の朝の時間は、どのように始まるでしょうか?それは僕にとっては意外なものでした。また朝から?!というようなものでした。それは僕が愚か者すぎるから僕特有のものかもしれません。しかし、本当にそこから始まるのです。それは「悔い改め」です。
十字架なしの感謝
僕がイメージしていた朝の祈りとは清々しくて「主よ、感謝します!ハレルヤ!」というような明るく開放的なものでした。しかし、どこまでいっても自分が自分です。どこまでいっても「肉々しくて肉たらしい」(造語)ことがわかりました。
まず、朝起きてすることは主の十字架の前に立つことです。これは悔い改めです。そして、十字架なしの感謝はありません。十字架梨の喜びはありません。十字架なしに主と共に歩むことはできません。十字架は肉にとっては不快なものです。しかし、霊にとっては命です。
朝、主の前に出る時、悔い改めから始まる。今、僕はそのように考えています。