他責より自責
他責よりも自責というのは一見正しいように思います。なぜなら周りのせいにしても何も変わらないからです。他責の精神は不毛で、不平不満や批判が表出されるだけで毒々しいだけです。さらに何の解決にもなりません。じゃあ、原因を他人に見つけて、他人を変えようとするのはどうでしょうか。ある人は、人を変えるにはその人が生きてきた人生の時間がかかると言っていました。つまり、仮に40歳生きてきた人を外部ら変えようとしたらさらに40年かかるということです。
一方、自責だと自分の影響の範囲内になるので、自分なら変えることができるかもしれません。このように他人は変えることはほぼ不可能ですが、自分は変えられる可能性があるのです。
自責しても仕方がない場合
しかし、最近、僕自身がこの自責の精神にメンタルをやられてしまっています。自責から問題点を洗い出して、改善策を講じれば自責もいい方向に進むと思います。しかし、自分の個性、資質、性格から起きた問題は、僕自身の生来の性質が原因となっているので、改善策を講じるのはとても難しいと感じているのです。そういったことが原因となっている場合、完全なる自己否定につながってしまい、非常に危機的な状況にすらなってしまいます。
例えば、喜怒哀楽が明確な人がいるとします。その人は公私関係なく感情が出てしまいます。そういった性質がもたらす問題は、その人の個性の一部でもあるので、改善が難しいと思います。もちろん、なんらかの訓練を受けて強力な自制心を働かせれば克服できるかもしれません。
しかし、ゆってしまえば、「だって、人間だもの」に落ち着いてしまうわけで、その人の生来の個性も失われてしまうかもしれません。ネガティブな一面の裏側はポジティブなので、その喜怒哀楽が公私ともに明確というのが良い方に働くこともあるからです。
主を見上げること
じゃあ、他責も自責も無理で、八方ふさがり、四面楚歌状態に陥った時どうすればいいのでしょうか。聖書は「主を見上げなさい」言っています。自分の弱さや失敗を見るのではなくて、こうべを上げて主を見上げるのです。自責、自責をしても弱っていくだけです。しかし、主を見上げる時に、主は必ず慰めてくださいます。そして、空慰めじゃなくて、希望を与える慰めと力を与えてくださいます。道を開いてくださるのも主です。
中山有太牧師の賛美を張りつけて終わります~
■その時は自責より主を見上げること